魔女の爪痕7

     (四)


 暗転する目の前。呻きながらも薄目に正面を仰ぐ。やけに豪華な照明が、爛々と光を降らせていた。呼吸は正常。目覚めたばかりで記憶が曖昧だ。嫌な夢でも見ていたような苦味だけが喉奥に残っていた。


「あぁ、おはようスヴェンくん。もう真夜中だけどねぇ」


 上体を起こした俺と、向かい合う形で座っていたのは葬儀屋だ。優雅にティーカップを揺らす彼。机上には包帯やガーゼ、血塗れの布が置かれており、追懐が眼を貫いた。動かした手は首に触れ、眼差しは胸元へ落ちる。衣服は血に塗れているものの、痛みがなかった。安堵が引き連れてくる不安。それを振り払うことが出来ず、恐る恐る葬儀屋を見上げた。


「俺は……」

「うん? あぁ、アドニスが頑張って運んできてくれたんだよ。あんな華奢な体で、男一人引っ張ってくるなんて、重かっただろうねぇ」

「アドニスは、無事なのか」

「当然じゃないか。ついさっき死体の回収を終えて、今はパンを取りに行ってる。何回も行き来していて大変そうだよ」


 意識を失ってしまった申し訳なさが脳髄に蔓延る。後でお礼を伝え、お詫びの品でも渡したい気分だ。首元に貼られているガーゼから手を離し、冷静になり始めた息を閑寂に溶かした。


「あんたが治してくれたのか。その、魔法とやらで」

「君の傷のことかい?」

「ああ」

「生憎僕にそんな力はなくてね。アドニスに任されたから、面倒くさいなぁと思いながらも、まぁ死なれたら処理が面倒だし血を拭いて手当をしてあげたのさ。そしたらまぁビックリ。君、傷の治りが早くて面白かったから、ちょっと切り開いて臓器を見ちゃったんだ。あぁ、ちゃんと戻しておいたから安心してくれ」

「は?」


 嬉々とした弁舌を振るう彼が、何を言っているのか。沈吟ちんぎんしてみても解釈が追いつかない。饒舌な彼は歓楽に満ちた真実を吐き捨ててきた。


「まさか君も〈神の子グレイス〉だったなんてね。その臓物を食べてみたいよ」

「グレ、イス……?」

「生まれつき無尽蔵の魔力を宿す存在さ。そのせいだろう、君には心臓がなかった」


 気抜けたような面貌はさぞ間抜けだったことだろう。言葉を紡げない俺に吹き出される笑声。葬儀屋はそれを紅茶に混ぜて飲み下していた。


「君、誰かに強く願われて生まれてきたとか、そういう話を聞いたことはあるかい?」

「……母親と、姉に、生きてくれって」

「ならそれだ。君は神の恵みを受けて生まれてきたんだよ。生きている限り、その願いの作用が続く。君にかかっているのは『生きろ』という魔法。君が死なない程度に身体が再生するのは魔力を消費しているからだけど、尽きることの無い魔力を持つ〈神の子グレイス〉は魔力の消費に気付かないし、魔力に飢えることもないから血肉を食らう必要もない。良かったね」

「何が、よかっただ……心臓がないなんて、じゃあ俺は今どうやって生きてるんだ……!?」


 人の核たる臓器。それを喪って生きていられる人間などいるのだろうか。現実味を伴わない話に畏怖がせり上がる。欠損の事実。それは、俺が人ではないと告げているようで痛哭が込み上げて堪らなかった。これではまるで、母と姉の願いが呪いに変わったみたいだ。そんなことを思いたくなくて、卓上に拳固を叩きつけた。


 陶器が音を立てる。肩を竦めてソーサーを持ち上げた彼は面倒くさそうに長息をついていた。


「説明したじゃないか。君は魔力に生かされているんだ」

「それなら、俺は……死ねないのか……?」

「そうかもしれないね、そこまでは分からない。ただ、魔力が人体に悪影響を及ぼすものだとは説明しただろう? 魔法使いの場合は生まれてから魔力が増幅しているから、構築済みの肉体よりも精神面への影響が大きい。だが〈神の子グレイス〉は産まれた時、つまり身体を造り上げている時点で既に魔力の影響を強く受けている。だから何かしら欠損して産まれてくることが多いんだ。生者よりも死者に近い存在とも言われているから、白髪になる確率も高い。アドニスはその典型だね。命が宿ったその時から、この子が神子になりますようにと願われ続け、村人全員から向けられる強い願いが魔力を増幅させ続けた」


 胸懐に浮かぶのはアドニスの姿。親近感を抱いた白髪。彼女は死者の声を聞いた時、生まれつきの体質だとも口にしていた。そんな彼女に欠陥など見受けられず、眉根を寄せる。


「アドニスも……なにか失っているのか?」

「ああ。彼女は性別を持たない。生後取り除かれたわけではなく、初めからそういう体で産まれてきたんだろう。手術痕とかはなかった」


 瞠若どうじゃくする俺を見て、葬儀屋は可笑しそうに破顔する。アドニスの凛とした相貌や玲瓏な声は、言われてみれば中性的でもあった。それでも、芸術品じみた容姿、少女のような衣装、加えて女性らしい柳髪、どれを映しても『彼女』と称さずにはいられないだろう。偏見によって性別を決めつけ、女扱いをし続けた俺に、彼女が時折滲ませた不服。それを今になって理解した。


「初めて見た時はそれなりに動揺したよ、なにせ人形のような体をしていたからさ。彼女が〈神の子グレイス〉だと分かって納得したけど」

「少女にしか見えないけどな……」

「女の子として生まれる可能性はあったのかもしれない。体の造りはどちらかと言うと女性寄りだ。胎内で成長する過程で、神に不要だと見なされた臓器は魔力に呑まれて失われていったんだろうね」

「……俺の心臓もそんなものか」

「君が願われたのは、生きることだ。魔力さえあれば生きられる体質で生まれた。つまり心臓は君に要らなかったんだよ。まぁ僕は神ではないから全て想像でしかないわけだけどね」


 自身の左胸に手を添えた。シャツを握りしめる。やり場のない情動が胸裏で這い回っているというのに、心臓はひとたびも揺れなかった。口端を引き攣らせたのは自嘲だ。神のもたらした奇跡がこんなものだなんて、どう受け止めたら良いのか分からなかった。


 テーブルを絵取えどる自身の影に見入っていたら、葬儀屋がまだ語りを続けていた。


「そしてこれは更に妄想でしかないんだが」

「なんだよ……」

「君の姉は、君の拍動が聞こえないことに気付いてしまったんじゃないか?」


 持ち上がった睫毛につられるよう、瞳孔が開いていく。居然として固まる俺に、彼は相好を崩す。揶揄するようなものではなく、嘲笑うようなものでもなく。それは、出会ってから見た彼の表情の中で珍しく、暖かな一笑だった。


「フェストを訪れる人の多くは、観光か治療を目的としている。この国で最も医療技術が高いのはフェストだ。臓器移植の研究も進んではいる。君の姉がココを目指した理由。僕にはそれが、君に心臓を贈る為としか思えないんだよ」

「……エリーゼ……」

「君の姉は、弟思いのお姉さんだった。……そうだろう?」


 彼はまるで、全て知悉ちしつしているかのような声遣いで慰めてくる。慈愛さえも垣間見える気がした。彼にも、大切な兄妹がいたのだろうか。紅茶の幽香が運んでくる同情は、不快ではなかった。

 粛然とし始めた室内で秒針が夜を深めていく。窓硝子を振り仰ぐと暗闇だけが広がっており、景色を眺めることは出来ない。アドニスは大丈夫だろうかと案じていれば木製の扉が音を立てていた。


「遅くなってしまい申し訳ありません……」

「あぁ、おかえりアドニス」


 アドニスの無事を確認したくてすぐさまそちらへ振り向く。俺と目が合うと、彼女は宝石じみた瞳を丸くしてから、柔らかく微笑んだ。そのまま葬儀屋へ近付き、彼が空にしたティーカップを受け取っていた。揺れる衣服は血で彩られているものの、無傷であるかのように軽快な足取りだった。


「葬儀屋、遅くなりましたが今から食事の用意をしますね」

「いや、君が持ってきた死体を適当に調理して食べたから要らないよ。それよりあとで僕の部屋に来てくれるかな? スヴェンくんに紅茶でも出してあげてからおいで」

「かしこまりました」


 退室していく黒衣を目で追いかけ、アドニスはその背に頭を下げる。部屋の隅に置かれていたワゴンへティーカップを片付けると、新しい陶器を取り出し紅茶を注ぎ始めた。彼女はそれを俺の前に置いて笑みを咲かせていた。


「スヴェン、無事でよかったよ」

「あんたもな。というか、悪い。運ばせてしまって……怪我は大丈夫か?」

「あぁ、気にしなくていい。君が死ななくてよかった」

「……葬儀屋から聞いたか?」


 髪飾りのレースが靡く。アドニスは「なにを?」と小首を傾げていた。恐らく聞いていないのだろう。彼女が出ていった後に葬儀屋は俺の肉を裂いたのかもしれない。未だ信じられない事柄を受け止めるべく、自身に言い聞かせる為にも、事実を明確に反芻した。


「俺は……心臓がないんだってな。その代わり魔力で生かされてる〈神の子グレイス〉だって」


 人形じみたかんばせは一驚を喫していた。硝子のように透き通ったオッドアイは煩慮を浮かばせる。その神色かおを満たしているのが俺に対する直情な心配で、思わずそれに寄りかかりたくなってしまう。そんな己に苦笑してしまった。


「心臓がない、死ねないだなんて……まるで死体みたいだよな」

「……スヴェン」


 純白の指先が頬に触れた。彼女は手袋をしていなかった。戦闘で血に塗れていた為、外したのだろう。その手の冷たさに、動揺した。氷にでも触れているかのようで、息を飲んでしまう。俺の驚駭を気取ることなく、アドニスは目顔を緩めていた。


「こんなに温かいんだ。君は、生きているよ」

「……けど」

「大丈夫。例え心臓がなくても、君が君であることは変わらない」


 冷えきった手が後頭部を撫で、俺の頭を彼女の胸元へ抱き込んだ。服の上からでも痩せていることが分かる身体。薄い胸の奥で、彼女の心臓が息衝いていた。秒を刻む程度の落ち着いた脈動。俺が持つことのない脈拍を、彼女は分け与えてくれているようで。それは、生まれ落ちてから焦がれ続けていた情を、注いでくれるみたいだった。


「魔力で生かされているとしても、生きられるように魔法を掛けてくれたのは君の大切な人達だ。君はお母さんとお姉さんの願いで、今を生きている。形なんてどうだっていいんだよ。君の魔力は、君の心臓だ。君はこれまで通りでいればいい。君自身を、大切にしたら良い」


 まるで幼子が母親に縋るように、抱きしめたくなる。華奢な身体に手を伸ばして、けれども結局触れることさえせずに腕を垂下させる。甘えに満ちた情感を、深くまで沈めた。


「……アドニス。葬儀屋に呼ばれていただろ。早く行ってやれ」

「あぁ……そうだね。そうする」

「……ありがとな」


 花顔が綻ぶ。彼女は静かに首を振ってから退室していった。


 心臓のない、死ねるのかも分からない体。それでもアドニスの言う通り、真実を見つめたとしてもこれまでの俺が変わることはない。願いが叶ったという奇跡。それが魔法によって起きていたというだけで、注がれた愛情も祈りも嘘となって消えるわけじゃない。魔力を象ってこの体内を巡り続けるのだろう。


 ソファに背を預けた。眩い銀燭に眼窩が痛む。睫毛を伏せて、エリーゼ、と、唇の裏で姉を呼んだ。心臓がなくても俺は生きて来れたし、今も生きている。だからこそ彼女に、これ以上俺を救おうとしなくていいのだと、伝えたかった。俺はとっくに救われ続けているのだから、と、朗らかに笑いたかった。


 瞼の裏、一面の暗闇で夢を見る。描かれるのは再会。ここまで追いかけてきた俺の声に、振り向く姉の姿。その口唇が困ったように動く。


 ごめんね。と。姉は誰かを庇うように立っていた。

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