魔女の爪痕6
アドニスが俺に倒れ込んだのと同時、地面へと滴った鮮血は彼の手を染めていたものだろう。そう認識していた為、俺の手に生温い血液が伝って即刻彼女を確認した。
ヘルマンに打たれた白磁の頬は焼かれたように赤く腫れ、僅かに捲れた皮膚から血が零れていた。顎へと伝うそれを意に介さず、彼女はヘルマンに眼差しを突き刺していた。
「誰かと思えば昼間の患者さんじゃないか。探偵ごっこでもしてるのかい?」
「そんなところだよ。ってわけで答え合わせをして欲しいな、妊婦連続殺人事件、その犯人は貴方で、妊婦の臓物も胎児さえも食っている。当たっているかな?」
「見ておいて何を今更。言い逃れなんて出来ないだろう? だから、僕が君たちを殺すことも許してくれよ」
血を払うように包丁を振るったその腕が、紅焔を纏う。彼は懐から取り出した貨幣を燃やした。魔法を見せつけるように夜闇を照らす炎。爆ぜるほど燃え上がったそれはこちらへ投擲される。閃く軌跡。姿勢を低くしたアドニスがそれを避ける。俺が銀貨を切り払っている合間、金属音が高らかに反響した。
アドニスが袖から取り出したのは刃。柄を握り込んだ前腕に添う形で刀身が付いており、変わった武器だった。彼女は両手に携えたそれで
「僕は今彼女と遊んでいるんだがね」
邪魔だと告げるような虎視を睨み返した。俺の剣尖から逃れた彼へ追撃。右へ左へと手首を返しひたすらに斬る。風だけを切る感覚に切歯しながらも、軽快に躱し続ける彼を追っていれば彼が踏み込んだ。爪先が触れるほどの距離で彼が俺を嗤う。彼を穿つ勢いで伸ばした腕。すれ違う彼の手。刃物を握っていないそれは俺が身を引く前にこちらの前腕を掴んだ。
一条の火花を目にして咄嗟に振り払ったのと、アドニスが攻め入ったのはほぼ同時だった。
「スヴェン!」
「大丈夫だ!」
とは言ったものの苦笑が漏れる。ざらついた手の平が一瞬触れただけだ。にもかかわらず利き腕は赤黒く焼け爛れていた。皮下組織まで伝って神経を震わせる痛み。俺はナイフをしかと握りしめて馳せた。
アドニスとヘルマンの衝突を横目で見ながら援護するタイミングを窺う。月明に染まった白髪が舞っていた。夜空に吸い込まれて消えていく擦過音。鳴り止むことなく連弾を奏でる。風声を立てる彼女の鋭刃。水平に振るわれる腕。叩きつけられる刃。その全てをヘルマンは弾き、躱し、軽くいなしていた。斬撃というよりも殴打に近いアドニスの襲撃。屈んで免れた彼がアドニスの右腕を蹴り上げていた。
間髪入れずに振り下ろされる彼女の左腕。俺はヘルマンの足を狙って爪先で弧を描く。転倒はしなかったがバランスを崩した彼へナイフを振るう。切っ先は彼の髪を切っただけ。前屈みになった彼が眼前にいる。狙われているのは左胸。外側にふれている腕を引き戻す──間に合わない。靴音が
鼓膜を貫く鉄塊同士の悲鳴。全霊の力でぶつかり合い、押し負けたのは少女の腕。アドニスの
「うっ……!」
「くそッ!」
吐き捨てた俺はヘルマンに肉薄する。俺の氷刃を視認した彼はアドニスから離れる間際、包丁を彼女から抜くことなく燃え上がらせた。彼女の呻吟が響く。それでも丸腰になった彼を攻めずにはいられない。好機を逃すわけにいかず、振り向きたい気持ちを押さえてひたすら猛追した。
彼女を傷付けられ、何の役にも立てない苛立ちに太刀筋を任せてどうする。自身を叱咤するように拳を固めて白刃をまっすぐ突き付けた。
回避と同時に弾ける火花。炎を纏った空拳が襲い来る。顔を掠めたそれに毛先が焼かれる。焦げ臭さが鼻腔を通り抜け、眉根を寄せた。振るわれる彼の脚部。咄嗟に自身を庇った前腕に彼の革靴がめり込む。骨が軋む感覚。指先まで痺れが走り抜ける。取り落としかけたナイフを構え直した直後、眼界を埋め尽くしたのは
「ちっ……!」
舌打ちと共に
「ははっ、なんだ君。僕を殺そうとしてるくせに、死ぬのは怖いのかい? 蜂起さえ経験していない若者は本当に軟弱だな」
嘲謔がうるさい。喘鳴がうるさい。全てをかき消すように奮然とひた走る。
「ぁああああ!」
駄目だ、と思った。感情的になるな、と心髄で叫ぶ。けれども焦燥ばかりが前に出て止まらない。このままでは死ぬ。早く決着を付けないと、首から流れ続けるこの血が俺を殺す。
靴底と地面が鳴らす耳障りな合奏。それに重なる空気の音。高い金属音。妊婦の死体から漂う鉄の匂いと、ヘルマンの纏う焦げ臭さが嗅覚までも狂わせそうだった。
激情に委ねた斬撃。恐怖を滲ませる追撃。只管に終止符を望む連撃。切る――切って裂いて薙ぎ続ける。微かな血が舞う。それでは足りない。前へ。更に前へと足を進ませ我武者羅に攻めた。金属同士を打ち付け合うほどに腕全体へ衝撃が広がる。消耗していく腕が進撃の手を衰えさせることは予想できた。だから速度を上げる。早く。弾指の隙すら生まぬほど素早く剣先を返す。そうして出し抜けに接近した。
頭上で零される動揺。睨め上げた先の瞠目を捉えたまま直線に繰り出す一撃。僅かに身を逸らした彼の上腕に切っ先が潜り込む。筋肉を穿通した確かな感触。迸った人血を散らすように振り抜いて今度こそ心臓を貫こうとした。途端肩の付け根に打ち込まれる焦熱の拳。振動は首まで響き、血濡れの喉を痛みが締め上げた。
「ぐぅっ……!」
「そろそろ大人しくしてくれないか、青年。後は君だけ、君一人で何が出来る?」
片膝を着いた俺に、嘆息を引き連れた刃が向かう。受け止めようとした俺の前で長い袖が靡いた。先程焼かれたせいだろう、彼女の左袖は焼き焦げ、手袋は流血によってか猩紅で染まっていた。
「アドニス!」
俺とヘルマンの間へ降り立った彼女の、薄い胸に深々と刀尖が沈む。肺腑を抉る勢いのまま刺され、細い体躯はよろめいた。それを支えるべく立ち上がるも、彼女がそれ以上
「
一閃。
冽々たる低声に
「大人しくしてろ! あんた胸を刺されてんだぞ!」
「私は死なないから問題ないよ。君こそ出血がひどい。下がっててくれ」
「無茶をするなって言ってるんだ! 俺はあんたの護衛としてここにいる、下がるわけに――」
「っああもう、言い争ってる場合じゃないだろ……!」
俺を掻き退けて前進すると、アドニスは振るわれた刀刃を受け止めていた。火花が散る。それは鍔迫り合いによって生じたものではない。ヘルマンの魔法だ。紅蓮に揺らめき出した彼の刃がアドニスを押し、今一度貫きにかかる。熱せられた金属で彼女が焼かれる前に俺は双脚を動かした。
斬撃を避けたアドニスに待ち受ける足払い。彼女はそれを察知して舞うように後背へ跳躍、焦げ付いた腕を振るって袖から抜いた小刀を
急襲ともいえる遠距離攻撃は失敗に終わった、彼はそう捉えたようで不敵に笑みながらアドニスへ接近。彼女だけを注視する彼は、俺が背後に回ったことに気付いてはいなかった。凛としたオッドアイは俺を見ない。それでもヘルマンの油断を作る為か彼女は防御に徹し始めた。
「お嬢さん、そろそろ死んでくれないか? さっき殺した女の血が僕を誘い続けてるんだ。早く食べたくて堪らない」
「貴方が魔法を使えるようになったのは恐らく大分前、私が知らない時代だ。フェストが前の市長だった頃かな。若くて腕のいい医師、同業者の嫉妬か何かで悪い噂でも流されて魔法に目覚めたけど、当時の政策に不満を持っていた人々の反乱に乗じて人間を殺せた。それを喰らって堪えた。それからは魔法を使うことも殺すこともなかった。それがココ最近になって妊婦を殺し始めたきっかけ……帝王切開でもしたのか? 切り裂いて、耐えられなかった?」
「想像力が豊かだね。まるで僕の記憶を見たかのようだ。耐えられるわけないだろ? 産む前に死んだ妊婦がいた、裂くしかないじゃないか。溢れ出す血の匂い、すぐにでも臓器にありつける。産まれたての赤ん坊もとても美味しそうだった……!」
熱を帯びた刃物が彼女の刀身を叩く。一振り、二振り。消えかけの洋燈のように何度も炎光が明滅する。防ぎながら下がっていく彼女を追い続ける彼の背。その中心に狙いを定めて地を蹴った。
「かはっ……!?」
馳せる勢い全てを乗せた刺突。柄が彼のシャツに触れるほど、これ以上深くは刺せないほど奥まで刺し込んだ。けれども臓腑まで切っ先が至ったかは分からない。荒い呼吸を漏らしながらも前へと踏み込み、より深部へ。両手で握り込んで、もっと奥へ。
呼吸がひどく乱れていた。首から溢流する血液のせいだろうか。両手が痙攣していた。力を込めすぎているせいだろうか。自身を誤魔化そうとしても湧き上がる真情が理性に訴えかけてくる。
――殺すのか。
殺人は罪だ。罪人を殺すことだって罪だ。優しい家族に生きろと願われて、清らかな両手で大切にされてきた俺は、この手を穢して良いのだろうか。人を死に至らせる。それは、父親と同じなのではないか。この身に流れる人殺しの血が、色濃く出ている証拠なのではないか。
「っ、う、ぁあああああ!」
黙れと吐き捨てる代わりに咆哮した。一度引き抜いた剣先を改めて深く突き立てる。心臓の鼓動が聞こえそうな衝突。ヘルマンの正面でアドニスが武器を構え直していた。追討の意を滲ませた彼女に、ヘルマンもまた人知れず腕を動かしていた。腕を振り上げた彼女。突き上げる為に肘を引いた彼。双方ともに
「――ッ!!」
声にならない悲鳴が喀血と共に吐出される。穿孔されたのは心臓。俺を刺し貫いたままの彼の手首を握り込んだ。首の出血、胸の痛み。朦朧とする意識を引き留めて離しはしない。彼の腕が――全身が、炎を纏う。その姿は火刑に処される罪人を思わせた。
轟、と烈火が盛る。石畳を、壁をも焦がし、妊婦を焼死体にしてしまいそうなほどの熱量。燃料はきっと彼の生命。吹き荒れる熱風。アドニスを寄せ付けず、俺をも撥ね退けようとしていた。表皮が熱せられていく。爛れていく。されど逃がしはしない。彼女を、傷付けさせはしない。
嗚呼、と気付く。これは利己的な殺人じゃない。俺はアドニスを守るために、彼を殺す。だから、この手を罪科で染色することを許してほしい。
なあ神様。命には命が必要なんだろう。人を救う為には相応の犠牲が必要なのだろう。だからあんたは母さんを死なせて俺を生かした。それなら、この男を死なせて彼女を生かしてくれ。
この胸に宿る命を奪うのなら、この男を殺してくれ。
「終わりだ」
吐息塗れの声を漏らして、俺は自身の胸から刃を抜いた。ヘルマンの手を振り払い、彼の武器をこの手で握りしめたまま。
「ふ……ざけるな! 終わるのはお前――」
騒ぎ立てるその咽喉を、真っ直ぐ貫いた。
残燭が燃え尽きるように、叫声の余韻が小夜風に攫われていく。彼に
「っスヴェン! 傷は……」
アドニスの周章が聞こえる。目の前はぼやけ、霞硝子越しに見ているようだった。全身から力が抜けて崩れ落ちる。駆け寄ってくる足音。それを最後に、瞼を閉じていた。
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