魔女の爪痕5

 大通りの端まで真っ直ぐ歩いていくと、アドニスが建物の方へ爪先を向ける。恐らくそこがパン屋だ。店内全体が硝子越しに窺える造りになっていて、窓際に並ぶパンも、奥のカウンターに置かれているものも美味しそうだった。通りかかったら入店したくなるような外装に感嘆しつつ、アドニスが開けた扉を潜った。


「いらっしゃいま……あら、アドニスちゃん。珍しいわね、誰かと一緒なんて。もしかしてお兄さん?」

「いや、仕事仲間だよ。彼はスヴェン」


 パン屋の店員に顔を覚えられている、とアドニスが言っていたことを思い出す。二人は顔見知りどころか友人のような雰囲気を漂わせていた。店員の女性は二十代後半くらいだろうか。俺よりも年上なのは確かだ。柔らかに波打つ茶髪を揺らして、頭を傾けていた。俺が会釈をすると、女性は口元に手を添えて微笑む。


「スヴェンくんね。ふふ、安心したわ。アドニスちゃん、いつも遅い時間に一人で来るんですもの、女の子が一人でなんて心配だったのよ」

「だから私は……まぁいいや。ライ麦パン、いつも通り紙袋に入るだけ詰めて欲しい」

「はぁい。少し待ってね」


 所作も語調もとてもゆったりした女性だ。温良な人柄が丁寧な指遣いにまで表れていた。大きな音を立てることなく、カウンターの向こうで紙袋が開かれていく。垂れ目を優しく細めた彼女は、青藍の瞳で俺を映した。


「スヴェンくん、アドニスちゃん良い子でしょう?」

「え、ああ、まあ……」

「しっかりしてて一人でなんでもこなしそうだけれど、まだ子供だもの。だからアドニスちゃんが大変そうだったら、大丈夫って言ってても助けてあげてね」

「グレーテ、そういう余計なことは言わなくていいから……」


 アドニスに注がれる憂心に、頬が緩む。優しく暖かな空気が蔓延し始めた中で、姉のことが胸裏に浮かんだ。姉妹みたいなやり取りを交わす彼女らを黙するまま見守った。


「でも心配なのよ。この前なんて血塗れで来たじゃない。怪我しただけって言っても、腕折れてたんでしょう? 無茶ばかりしちゃだめよ」

「いつの話をしてるのさ……」

「先週? ううん、ひと月前だったかしら。腕、大丈夫じゃなかったらスヴェンくんに荷物持ってもらってね」

「半年くらい前だしとっくに治ってるよ」

「あら。最近物忘れが増えてきたのよね、もう歳かしら。いやだわ」


 トングを手にした彼女がショーケースからパンを取っていく。もともと広がっていた甘いパンの香りが強くなり、食欲が湧いてくる。カウンターの下には砂糖のかかったパンやクルミパン、プレッツェルなど様々なパンが少しだけ置かれていた。夜が近くなると品物も減るのだろう。ジャムやフルーツを使ったパンはもう売り切れのようで、品名が書かれた紙だけがトレーの上に残っていた。


「あ、グレーテ。今日警察が来たんじゃないか? 大丈夫だった? お客さんの顔は覚えてた?」

「よく知ってるわね。大丈夫よ、お客さんの顔は忘れないわ。お姉さんがなにか勘違いしてたみたいねぇ。お兄さんはパンを落としちゃったみたいだから新しいのに変えてあげたの。頑張って稼いだんですって。お子さんと美味しく食べてて欲しいわ」

「取り替えてあげたのか、相変わらず優しいね」

「彼に非はないもの。それにしても事件はなくならないわね。殺しも行方不明も窃盗も……本当に気を付けてね、アドニスちゃん」


 彼女が語ったお姉さん、というのはパンを盗られたと言っていた女性のことで、お兄さんは浮浪者の男性のことだろうか。噛み砕いていれば真実が見えてきて、拳を握りしめた。


「……じゃああの女性が、嘘を吐いてたのか」

「そうみたいだね。まぁ解決して良かったじゃないか」


 彼が冤罪にならなかったのは良かった。けれども悲鳴を信じ、彼を犯人だと決めつけて押さえつけた申し訳なさが胸を占拠し始めていた。犯人でなかったのなら何故彼が走って逃げたのか。そんなことははっきりと分かっていた。金を持っていなさそうな浮浪者の男性と悲鳴を上げる女性。彼が逃げずに否定したとしても、周囲が信じたのは後者だろう。


 ――人を壊すのは人だ。思い込みや言葉には気を付けるんだよ。


 葬儀屋の口吻が蘇り、耳にこびりつく。一人一人の小さな偏見や軽蔑を発端に、人が歪められる。魔法使いにまではならずとも、犯罪者にはなるかもしれない。誰かの言葉で歪んで、罪を犯す者は多いはずだ。今回の妊婦殺人事件だってきっとそうだろう。人を殺めるに至った経緯を想像してしまえば、同情の念が滲み出す。それでも罪を許せはしなかった。


 グレーテ、と呼ばれていた店員の女性がアドニスに釣り銭を出そうとして、カウンターの奥へ歩いていく。俺達しか客がいない静けさに、声量を抑えて訊ねた。


「なぁ、アドニス。妊婦殺しの犯人は男と女、どちらだと思う?」

「情報が少なくてそこすら分からないよ」

「もし魔女と言われた人間なら、女ってことになるか?」

「そうとも限らない。魔女狩りは男女問わず行われた。怪しい人間、気に食わない人間、魔法みたいに優れた能力を持つ人間。薬剤師や医者なんかも疑われることが多かったみたいだね。そうして裁判に掛けられ、多くは火刑に……」


 喃々なんなんと紡いでいた彼女が、そこで止まった。不思議に思って見遣ると、正面を見つめたまま硬直していた。その瞳が映しているのは恐らく目の前ではない。どうしたのかと様子を見ていたら、プラム色の長い袖が勢いよく翻った。


「スヴェン! 病院に戻ろう! 医者ならまだ病院にいるかもしれない……!」

「な……どういうことだ!」

「話は後だ! グレーテ! 後で必ず取りに来る、預かっていてくれ」

「分かったわ。気を付けてねアドニスちゃん。スヴェンくんも」


 戸惑いを見せながらも柔和に手を振るグレーテへ、軽く頭を下げてからアドニスを追いかけた。店外へと躍り出る。彼女はベストのレースを揺らして橋の方へと疾駆した。いつの間にか日は暮れて、夜降よぐたちの街は鉄紺で染まりつつあった。横に並んだ俺を瞥見して、彼女は乱れた呼気で吐き出した。


「妊婦を狙った犯人は、病院の前で待ち伏せ、尾行し殺していった。妊婦に恨みや特別な感情のある人物。警察は多分そうだと思って捜査をしている」

「違うのか」

「恐らく犯人はあの医者だよ。六十代……魔女狩りの名残がある時代を生きていて、腕がいい。そして妊婦全員と面識がある。あの人、放火されたことがあるって言ってたな……魔法を使っているなんて噂された過去がもしあったなら、魔女だと見なされて『燃やされてしまえ』と言われ続けた可能性もある。そうしてその身に炎を纏うようになったとすれば……」

「犯人である確率は高い、か」


 病院の前まで行くと、ちょうど看護師と思しき女性が鞄を持って出てきたところだった。アドニスが彼女の前に飛び出し、肩で息をして問いを投げかけた。


「っあの、医者は……ヘルマン・ハック先生はまだいますか!?」

「え、っと。ヘルマン先生なら先程お帰りになられましたよ」


 女性は怪訝そうな顔をしながらも、丁寧に会釈をしてから帰路を辿っていく。呼吸を整えている様子のアドニスを後目で窺い、俺は眉間に皺を刻んだ。


「本当に帰宅したのか? もしかして次の被害者を……」

「その可能性は高いね。どうする……」

「あの看護師、先程って言ってたな。まだ近くにいるかもしれない。俺達とはすれ違ってないから逆方向……」


 薄暗い夜道を照らすのは、建物から漏れ出す室内光、街灯と月桂の淡い光だけ。それでも目を凝らせば遠くに人影を見つけることが出来た。道の先、声が聞こえないほど離れた位置。煌々とした灯火を覗かせる玄関で、男性と女性が朗らかに会話をしているようだった。女性が扉を閉めて外へ出る。その腹部は膨らみ、妊婦なのではないかと臆断出来た。


「アドニス! 追いかけるぞ!」

「え、わ、わかった!」


 どうやらアドニスからは見えていなかったらしい。建物の陰へ進んでしまった彼らに舌を打つ。それでも見失わぬよう、曲がった位置を記憶して走る。息が切れるほどの距離に内心、くそと吐き捨て、ようやく辿り着いた路地へ飛び込んだ。そこに人気はない。別の場所へ行ってしまったのだろうかと思惟し、先へと進んでいく。道は十字に分かれており、どこを曲がるか悩みながら直進したらアドニスに腕を強く引かれた。


「アド――」

「静かに。……遅かったか……」


 壁に背を預けた彼女が、曲がり角を覗き見る。彼女の肩越しにそちらを映すと、暗晦な道で仰臥ぎょうがしている女性の姿があった。男性がその腹に喰らいつく様は獣のようで、俺は眉を顰めた。形容したくもない残酷な咀嚼音が小さく響いている。柔らかいものを押し潰す音。管から溢れ出した血液を啜る音。止めに入るべくナイフを取り出したが、散らばる水音に動きを止めた。男性は噎せ返りながら吐瀉物を散らし、それでも女性の腹に喰い付いていた。


「吐いてる……? 魔法使いは血肉が好物なんだろ?」

「感情では拒んでいるか、体内に含める魔力に限界が来ているか、だろうね」

「どういうことだ?」


 足を下げ、壁の陰へと身を隠す。アドニスと視線が絡む。彼女は真剣な双眼に俺を宿したまま腕を組み、壁に寄りかかった。


「体内に含める魔力量は人によって異なるけど、各々決まっているんだ。コップの大きさみたいなものだね。普通の人はティーカップくらいだと思ってみるといいよ。そこに半分くらい紅茶が注がれているのが通常時だ。他人に勝手に注がれて、溢れ出したらコップを変えないといけない。これは肉体が魔力に応じようとして、魔力の限界値を高めようとしているんだけどね。魔法使いはマグカップを使うとしようか。ティーカップよりは多く注げるようになった。それでも限界はある。これ以上大きなコップは用意されない。魔法使いは魔力に飢えるけど、上限は超えられない。上限を超えれば心身が壊れたり最悪死に至る」

「過剰摂取は良くないってことか。薬と一緒だな」

「ああ。普通の人が人肉を食べて、或いは見ただけでも吐き気を覚えるのは、感情的な部分もあるけれど、魔力に当てられて自身の魔力が溢れ出さないように体が拒絶している、という説もあるんだよ」

「――へぇ、もっと早く知りたかったよお嬢さん」


 俺の相槌を掻き消したのは柔らかな低音。瞠然としたアドニスが髪を引かれてバランスを崩す。俺が息を呑んでいる間に男の手が彼女の頬を打った。


「アドニス!」

「くっ……!」


 力強く払い飛ばされた彼女を咄嗟に支える。道の先から差し込む街灯に照らされ、男の風貌が鮮明になる。昼間、アドニスと共に訪れた病院で言葉を交わした医師、ヘルマン・ハック。白衣ではなく私服姿の彼は既に返り血で塗れていた。

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