魔女の爪痕4

 熱鬧ひとごみに虹彩を動かしてみると、薄汚れたシャツを着た男性が駆けてきていた。進行方向は俺達の方。無視する訳にもいかず、疾駆する彼を止めようと片足を踏み込んだ。


 俺と彼、互いの距離はすぐに縮まっていた。彼の荒い呼吸音がすぐ傍で聞こえる。すれ違いざまに片腕を伸ばして彼の胸倉を掴み、引き寄せた。吃驚を零しながらも反射的に俺の腕をほどこうとする彼。俺を突き飛ばす勢いで肘が向かってきたのを視認するなり爪先を滑らせた。ブーツが彼の脹脛ふくらはぎに沈み込む。それはたった転瞬の間のことで、微かに上がった呻き声と鈍い音が石畳に叩きつけられていた。


「いっ、てぇ……!」

「動くな。逃げるなよ」


 起き上がろうと地面に突かれた彼の手首を捻り上げる。伏している彼の傍らには紙袋から転がったと思しき丸いパンが散乱していた。


 歳は三十くらいだろうか、手は傷だらけで汚れており、伸びた爪に土が溜まっている。砂埃が染み付いたようなシャツの袖はほつれていて、金に困っていたことは容易に推知できた。


「嫌ね、やっぱり浮浪者よ」

「泥棒だって? 貧民はほんとロクなことをしないな」

「盗みなんて浮浪者しかやらないだろ」


 通り掛かる人の声に意識が向いてしまって、唇を噛み締めた。確かに盗みは犯罪で、許される行いではない。それでも、まるで貧しい人は総じて罪を犯すものだと言わんばかりの舌鋒ぜっぽうは聞き心地の良いものではなかった。


「君! 盗人だって!?」


 駆け寄ってくる革靴の音に顔を上げる。上下黒の装いにしっかりと締められたネクタイ、狼狽した顔付きに影を落としているのは制帽だ。誰かが警察を呼んだのだと理解し、浮浪者の男性を警察が押さえ始めたのを見て、彼らから一歩離れた。


「この人が……」

「――私のパンを、その男性が盗ったんです……っ」


 被害者らしい女性が足早に歩み寄ってきた。犯人は拘束され、警察もいる。俺がすることはもうないな、と彼らに背を向けアドニスの姿を探した。真後ろにいたはずの彼女はどこかへ行っていたのか、通りの先から俺の方へ歩いて来ているところだった。


「アドニ……」

「違う! その女がパンをひったくろうとしたから抵抗したら、いきなり叫び出したんだ!」

「そんなわけないでしょ!? 言いがかりよ! 貴方にパンを買えるお金なんてあります!?」


 なにやら揉め始めた彼らに再度目をやると、アドニスが無味乾燥な声で俺に言った。


「行こうか」

「……いや、だが……」

「ここから先は警察の仕事だよ。もしあの男性が本当に被害者なら、気の毒だね」


 足を動かせずにいる俺の手首を、アドニスが掴む。馬の手綱を引くように歩を進めた彼女の靴音。それが揉めている彼らの背後で一度だけ甲高く響いた。

 力強く踏み込んで、わざと立てたようなヒールの音色。靡いた白髪を警察の男性が目で追っていた。


「パン屋のお姉さんは記憶力が良くてね、客の顔をちゃんと覚えているんだ。私もよく行くから覚えられているよ」


 俺の方を真っ直ぐに映した彼女の、変哲もない言葉。それは俺ではなく、警察に聞こえるよう放たれていた。少し進んだ先で靴と紙の擦過音が立てられる。彼女がバランスを崩したのが見え、慌てて細い腰を抱き寄せた。


「っ大丈夫か」

「あぁ、滑っただけだから」


 地面に落ちていたのは演劇の広告のようだった。『神々の誕生系譜テオゴニア』というタイトルの下に、配役が書かれている。ゼウス、ウラノス、クロノス。ギリシア神話か、と思慮していたらアドニスが俺の腕から強引に抜けていた。


「あ……悪い」

「それより、スヴェンは戦い慣れていたりするのかい?」

「戦い……? いや、ないな。動物を狩っていた、くらいだ。肉も皮も高く買い取ってもらえたからな。あとは……村で騎士の真似事が流行っていたから、友人と遊び感覚で稽古みたいなのはしてた」

「じゃあそれが良い方向に影響してるのかな。あの男性を拘束していた時、手際が良かった」

「さっき……そういえば、あんたが警察を呼んでくれたんだろ? ありがとな」

「私は早く妊婦殺人事件に集中したかっただけだよ」


 人混みを抜け、橋の上を二人で歩く。どこへ行くのかと思っていたら、橋を渡りきる前に彼女はベンチへ腰を下ろしていた。俺は立ったまま真白の旋毛を見つめた。


「スヴェン。犯人が魔法使いである可能性や、犯人を殺すことを話したからわかっているとは思うけど、当然戦うことになる。だから、これを」


 広い袖の中から、彼女が何かを取り出す。渡されたのはフォールディングナイフだ。木製の柄に刃が収まっていた。覗いている刀身の溝に爪を引っ掛け、試しに開いてみる。犀利さいりな切っ先が白光を受け止めて煌めいていた。


「死にそうになったら逃げていい。それは覚えておいてほしい」

「あんたも一緒に逃げるのか」

「私は仕留めるまで戦うよ。だけどそこまで君を巻き込むつもりはない。葬儀屋が護衛とか言っていたけどそれは気にしなくていい」

「そうはいかないだろ。あんたが逃げないなら俺も逃げるわけにはいかない。護衛としての役目はちゃんと果たす」

「……わかった。なら私も逃げるから無理はしないように」


 ナイフを懐に収める。アドニスが零したのは、幽かに不服さを包含した声調だった。思い返してみると葬儀屋の屋敷にいた時も、巻き込みたくないと口にしていた。優しい子なのだろう。そう思ったと同時に彼女の頭を撫でていた。


「あんたも無理するなよ」

「……薄々思っていたけどさ。スヴェン、君、私のことを子供だと思ってるだろう」

「別に子供扱いしてるわけじゃないが……でも未成年だろ」

「確かに葬儀屋の魔法で四年前から成長は止まってる。けど今年で二十歳だ。未成年じゃない」


 成人年齢は十八だ。外見年齢は未成年ということで、俺の推断は正しかったのでは。そう言ってやりたかったが、彼女の頭に乗せていた手が力強く振り払われたため唇を引き結んだ。


「……まぁ成人してるにしても俺の方が一つ上だ。妹みたいに扱うくらい許せよ」

「妹って、そもそも私は――……そうか、それを利用しよう」

「は?」

「次の被害者をマーク出来るならしたくてね、病院で聞き出せないかと思ったけど良い案が浮かばなかったんだ。だが君のおかげで浮かんだよ。患者として調査に行こう。君に孕まされた設定なら問題なく乗り込める」

「なんて?」


 涼風で靡く白髪。それを邪魔そうに耳にかけた彼女の、その相形は真剣そのもの。対する俺の面持ちはひたすら険しさを帯びていたことだろう。


「あんた自分が未成年の外見をしてることは理解してるんだよな? その上で夫婦役をやると? 本気か?」

「ママゴトの話をしているんじゃないんだよ。犯人は妊婦を殺し続けている。あの病院で近々妊娠を予定している患者が残り何人いるのか、把握しておきたい。一人二人なら私とスヴェンで見守れる」


 彼女の言うことは尤もだ。それを知るための乗り込み方が些か強引だとは思うが、代案が思いつくこともない。俺は渋面を象ったまま、大息を吐き出した。


「……わかった、行くぞ」


     (三)


 晩照がかくぜんと日暮れを証す。橋梁きょうりょうに影を落とされる水面は橙に色付いて明滅していた。


 先刻、「妊娠したかもしれないのですが、妊婦が殺されている事件が頻発していますし、この街の病院にかかるのはやめた方が良いでしょうか……」と不安げに切り出したアドニスに、六十代ほどの男性医師は柔らかに笑っていた。事件を気にしている患者は多くないし、今月出産する予定の患者も二人ほどいるという。それからは話好きらしい医師の世間話が長々続いた。治安は昔よりは良くなった方だの、昔は殺しどころか盗みや放火も頻繁に起きていただの、殆どが彼の苦労話だ。適当に話を切り上げて病院を後にし、病院の入口が見える橋の上でアドニスと見張りをしていた。患者の名前や身元までは流石に聞き出せなかった為、一目見て妊婦と分かる女性がいたら護衛をしようという話になった。


「妊娠初期と思われる女性は犯人の標的から除外して考えていいと私は思う。妊婦を殺したあと、胎児を引き出して、その胎児までも食べているのだとしたら。胎児が十分に、或いはそれなりに成長した時期を狙うはずだから」

「そうだな……無事に産まれて欲しいな」

「……子供が、好きなのかい?」


 欄干に凭れかかったアドニスが、人好きのする笑みを携えて俺を見上げた。優しい面差しに少しだけ面映ゆい気持ちになる。橋に両肘を預けて、茜空を仰いだ。好きかどうかと聞かれれば、分からない。ただ、命はすべからく尊ぶべきものだ。大切かと問われたなら、俺は悩むことなく首肯するだろう。


「そりゃあな。宿った命も、それを愛おしむ母親も、傷付けられるべきじゃないだろ」

「あぁ、その通りだね」

「……俺の父親が」


 唇が、勝手に動いていた。この閑寂な空気に寄りかかり、抱え込んだ怨みを吐露したくなっていた。アドニスは何も言わない。急かすことなく待ってくれている。それが心地良かった。


「子供、嫌いだったらしいんだ。姉のことも虐待してたって。それでも貧乏だったから、母親も姉も逃げないでそいつと暮らしていたらしい。そんな日々で、俺の命が母親に宿って。父親は母親を暴行し続けた。母親は、俺を守り続けて死んだそうだ」

「……そう、か」

「母親の胎内にいた俺のことも殺す気で、父親は動かない母親を蹴り続けた。本当なら、俺もそこで死んでいたはずなんだ。父親がいなくなって、姉が医者を呼んで、生きていてくれって願ってくれた。母親も死の間際まで、死なないでって言ってくれてたみたいだ。姉がいつも言っていたよ。この時だけは神様がいるのかもしれないと思った、ってな。俺が死なずに済んだのは守ってくれた母さんと、助けを呼びに行ってくれたエリーゼの……姉のおかげだ。神様なんて、俺は信じちゃいない」


 頭上を烏が飛んでいく。赫燿かくようとした陽を受けて、色濃い影を落としていた。過ぎ去る姿を追いかけるようにまなこを動かすと、アドニスが手を合わせているのが見えた。祈るように握りこまれた両手。鳥の鳴き声だけが遠のいていく静けさに、俺は首を傾げた。


「なに、してるんだ?」

「安寧を祈っているんだ。君のお母さんとお姉さんに、神の御加護がありますようにって。他人の強い感情が現実になる世界なら、願った幸福も形になるかもしれないから」


 祈祷をする姿は絵になっていた。風に吹かれても我関せずといった様相で祈り続ける。葬儀屋のもとに来る前は教会にでも通っていたのだろうか。祈ることが日常的になっていたのではないかと思うほどに、清純な風采だった。


「それにしても、そんなに願われて奇跡のように生まれてきたのなら、君もなんらかの魔法を持っていてもおかしくはないね」

「まさか。俺は空を飛んだり火を起こしたり、物語の魔女みたいなことは出来ない」

「……火を起こす魔法。今回の犯人はその可能性がある」


 日暮れ前、アドニスが死者の声を聴いていた時のことを追思する。火花が散っていたと、彼女は被害者から聴いたらしい。凶器が刃物であることが分かっている以上、彼女の言う通りそれが魔法と繋がっているのはあり得ることだった。


「となると、火を纏うと思われて迫害された人間かもしれない、ってことか? それこそ魔女だと言われて?」

「魔女にも色々あるけど……あいつは物を燃やす、なんて思われることってあるかな」

「日常的に火を使う職業ならどうだ。料理人、鍛冶屋、あと……そんなに思いつかないな」

「そう、だね……」


 ふと、視野の隅で病院の扉が開閉し、そちらに目をやった。看護師が扉の前の札を裏返す。それは戸締りの合図で、アドニスに嘆息させていた。


「そっか、病院、閉まる時間だね」

「今日は患者が少なかったんだな」

「……仕方ない。とりあえずパンを買って今日のところは帰ろうか」


 夕刻にもなると人通りも疎らになるようだ。橋を渡った先の大通りは、昼よりも歩きやすく閑散としていた。パン、というと、昼間の諍いを思い出す。あの一件が解決していることを願いながらアドニスの影を追いかけた。

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