第一章

魔女の爪痕1

 甲板で眺める景色は古ぼけた絵画のようだった。どこまでも眺望出来る広さには感嘆したが、碧天は暗雲に呑まれて濁っており、美しいとは言い難い。それでも子供を楽しませるには充分すぎるようで、少年の楽しげな声が聞こえてきた。


 つられてそちらへ目をやると、母親と手を繋いで滄海そうかいを眺めていた少年が振り向く。視線を感じたのだろうか、俺の方を見るなり諸目もろめを丸めて駆け寄ってきた。


「お兄さん髪真っ白!」

「ちょっと、失礼でしょ! うちの子がごめんなさい……!」


 慌てて追いかけてきた女性に頭を下げられたため、「大丈夫ですよ」と苦笑した。灰色がかった雲間から幽かに差し込む仄日そくじつが、淀んだ水面に反射して揺れている。そんな光景にはもう飽きたのか、少年の興味が真っ直ぐこちらへ注がれるものだから、腰を屈めて彼の頭を撫でてやった。


「白い髪は珍しいか?」

「うん! 神様みたい!」

「神様?」

「あのね、ぼくの村にも真っ白の髪の神子様がいたんだけどね、白い髪で産まれてくるのは神様の子供なんだって!」

「へぇ……」


 貴方は神様が救ってくださったのよ。


 いつか聞いた姉の言葉を回視していた。神様、という存在を俺は信じていない。もしいるのなら、母のことも救ってくれたはずで。この世に救われない人間がいるはずもない。


 暗然と俯きかけてから、目の前の少年のことを思い出して微笑を象った。かんとして相槌を打っていると、潮の香りにラベンダーのような蘭麝らんじゃが混ざった。香水だろうか。俺の傍まで歩み寄ってきた少年の母親が、困ったように笑ってから小さな彼を抱き上げていた。


「本当にすみません……。一人旅ですか? どちらまで?」

「旅というか……姉を探しているんです。五年も帰って来なくて」

「まぁ……それは心配ですね。国外ですか?」

「いえ。フェストという港湾都市なんですが……知っていますか?」


 女性は一度首を傾けてから、少年を抱え直した。十歳ほどの少年はそれなりに重いのだろう。よいしょ、と漏らして、遠くの方へ双眸を向ける。彼女は思議するように息を吐くと、喜色を湛えて睫毛を跳ねさせていた。


「思い出しました! 食べ物がとても美味しいと有名ですよね! それに優秀なお医者様がいらっしゃるとか、大きな劇場もあるとか……暮らしやすそうなところですよね。一度行ってみたいものです」

「そうなんですね。俺はどういうところなのかは知らなかったので……」


 思えば、姉がどうしてそこを目指したのかも分からない。俺の頭を撫でながら、憂いを宿した瞳でこちらを見ていたことだけが記憶に色濃く残っている。彼女はごめんねと零す以外何も語らなかったし、当時十六だった俺は撫でられた気恥ずかしさから彼女の腕を振り払っていた。それが最後だ。それを『最期』にはしたくなかった。


 港湾都市フェストの話を女性が続けてくれていたら、頭上から雫が溢れてきた。雲翳うんえいは先程よりも暗澹と深まり、雨を強めていく。降り出しそうな空だったしな、と、それに眉根を寄せていれば女性も渋面を作り上げていた。


「あら嫌だわ。雨ね……」

「中に入りましょうか。風邪、引いちゃいますよ」

「ええ、この子も探検は飽きたみたいですし、部屋に戻ることにします。お兄さん、良い旅を。お姉様が見つかると良いですね」

「お兄さんまたね!」

「あぁ、またな。お二人も、旅行楽しんで下さい」


 船内の廊下で親子と別れ、数秒思惟してから自室へ向かった。カジノで遊ぶような気分でも、バーやレストランで飲み食いする気分でもない。彩度を下げていくあの空が、この心緒を映し出しているみたいだった。


 五年。手紙の一通もなく、帰ってくることもない。それは、俺が一人でも大丈夫だと認識したからだろうか。それならそれでいい。けれども焦慮が込み上げてきて仕方がない。彼女も船に乗ったはずだ。天候が荒れて、そのまま事故かなにかで――。


 最悪な予想を脳室から取り去る。これは全て雨のせいだ。心なしか酷く揺れているような船内で、年甲斐もなく心細さを覚えているだけだろう。落ち着け、と自身に言い聞かせる。何もかもフェストに着いてから考えればいい。


 無意識下で震えていた指先に力を込めて扼腕やくわんする。木造りの廊下の先で、真鍮のドアノブに手をかけた。到着まではまだ当分かかる。寝るつもりでベッドへ歩み寄り、波音の大きさに息を呑んだ。突如激しく揺れたものだから咄嗟に壁へ凭れる。丸い窓に黒目を向けた途端、轟音が窓硝子を砕いて溢流いつりゅうした。


 一弾指の間さえ挟むことなく眼界が濃藍で染め上げられる。容赦なく眼球に触れた水から逃れるように固く目を瞑った。地響きのような音が止まない。壁や家具に押し付けられ、全身が痛む。呼吸をしようとして、吸い込むことが出来たのは凍えるような海水。噎せ返った後の喘鳴音すら水に溶けていく。冷えきっていく体温を片腕で掻き抱きながら、虚ろに薄目を開けた。


 暗く澱んだ溟海は、死を思わせる。遠のいていく旋律。体と共に沈んでいく意識。何も見えなくなっていく中で、思い出が走馬灯のように巡った。


 ――神様はきっと、毎日沢山の声を聴いているの。


 瞼の裏で姉が穏やかに微笑む。金に煌めく柳髪を耳にかけ、ほつれた衣服を繕う彼女。それは母の形見なのだと、幼い俺に説いてくれたことを思い出す。


 ――私達は雑踏の中にいて、神様に一人一人の声は届かない。だけどね。


 朧気な意識を保ったまま、歯を食いしばった。もし。もし彼女が、今の俺と同じように水底へ投げ出されていたのなら。冷然たる運命に侵されて窒息していったのなら。


 ――助けてって、大きな声で叫び続けたら、届くかもしれないのよ。


 神様。それでもどうか、彼女の拍動は奪わないでくれ。


     (一)


「痛っ! 意識がないのに蹴ってきたよ……僕は運が良いね。こんなに活きの良い死体を拾うことが出来て」

「何を言っているのですか葬儀屋。その方、まだ生きているでしょう。追い剥ぎのようなことをしていないで休ませてあげてください。私は朝食の準備をしてくるので、くれぐれも怪我をさせないように」


 剽軽ひょうきんな男性の声。次いで落ち着いた少女の低声が耳朶を打つ。潮の香りはしない。寒さに総毛立つこともない。代わりに紅茶の薫香くんこうが鼻腔を擽り、温もりに包まれていた。ヒールの音が高らかに響き、開閉音を鳴らした扉の奥へ消える。


 ふと動かした腕が触り心地の良い布地に触れた。瞼を持ち上げてみるとそれはブランケットで、俺は光沢のあるソファに横たわっていた。足に違和感を覚えて視線を下げてみたら、黒一色の衣装に身を包んだ男が俺の靴を持ち上げ、気抜けたようにこちらを見ていた。


「あぁ、ようやく起きたのかい? 気分は如何かな?」

「っ誰だあんたは……!」


 反射的に足を引っ込めれば黒手袋に包まれた彼の手が離れていく。彼は紫のリボンが巻かれたシルクハットを片手で押さえ、胡散臭い笑みを浮かべて軽い会釈をしていた。


「僕はヴォルフ・ライヒェンベルガー。皆僕のことを葬儀屋って呼ぶからそう呼んでくれて構わないよ。で、君は海辺に転がってた死に損ない青年だね。感謝してくれたまえよ? 善良なる僕が拾ったことで君は何も盗られちゃいないし、無一文な君にも食事くらい出してあげるつもりだ。優しいだろう?」

「なにが善良なる、だ。あんた人の靴を脱がそうとしてただろ。というか無一文ってどういうことだ。俺はポケットに財布を入れていた、あんたが盗んだんじゃないか?」

「命の恩人に酷い言い草だな、なんだ君は。ポケットに入れていた財布なんて恐らく流されたに決まっているだろう? まあとりあえずその靴をちょっと見せてくれないかな?」

「あんたがなんなんだ……!」


 俺の蹴りを躱した彼の胸元でネックレスが光芒を散らす。燭光を反射したその十字架だけ見れば聖職者のようだったが、漆黒のマントの留め具が手の骨を模していて気味が悪い。どこを見ても善人には見えず、怪しい宗教家に捕まったのではないかと歯噛みした。


 辺りを見回してみると、貴族の邸宅じみた内装だ。ソファもテーブルも、机上に置かれたティーカップも、高価なものだと一目で分かる。冷静になっていく頭で、何故こんな所にいるのかおもんみたが、その答えは方今ほうこん彼が口にしていた。


「海辺に……」

「いやぁ、ボタンが付いている靴って珍しくてね。それもダブルボタンだ。まるでコートをモチーフにしているようなデザインで気に入ってしまったよ。今度靴屋に頼んで作ってもらおうかな。僕の人形にも似合うと思うんだが」

「おい、葬儀屋……とか言ったな。俺の他に、人はいなかったのか?」


 甲板で数言交わしただけの親子のことを回顧する。同時に、波に呑まれていた感覚が戦慄となって全身を巡る。震えかけた四肢に力を込めて、ソファに座り直した。俺の正面へ着座した彼は、藤紫の瞳を弓なりにしならせた。ふ、と吹き零されたのは苦笑だ。


「そうだね、死体もなかったよ。君の知人はきっとどこかで生きている。そう思っておくといい。……それとも一人旅だったかな? 可哀想に。友達になってあげようか?」

「あんた余計な言葉が多すぎるって言われないか?」

「君は礼儀がなっていないと言われてそうだね。命の恩人に対してお礼の一つも言えないなんてねぇ」


 この男と言葉を交わしていると頭を抱えたくなる。けれども礼節を欠いていたことは事実で、顔を顰めざるを得なかった。


「……悪かった。ありがとう」


 陶器が涼しげに擦れる。葬儀屋は俺の言辞を聞いていなかったのか、反応を示すことなく優雅にティーカップを傾けていた。緘黙が降りた室内で、俺は人知れず指を絡ませ祈った。あの親子が、どうか無事であればいい。そして姉も、向かった港湾都市で生きていてくれればいい。


 彼の後背に柱時計があるのを認め、針が示す先を辿る。昼前であることはわかったが日付までは分からない。何より、ここがどこなのかすら訊いていないことに気が付いた。


「なぁ、ここって――」

「お待たせしました」


 紅茶を啜る葬儀屋の虹彩が他所を向く。扉の前には少女が立っていた。陶器のような白磁の肌に純白の長髪。白髪の内側は藤紫に染まっていて、こちらを見据える明眸めいぼうは灰とふたあいのオッドアイ。凝視してしまうほど人形じみており、目立つ容姿をしていた。タイツに覆われてはいるものの華奢な足を太腿まで晒している。それを視認して目を逸らしてしまった。


「っあんた女の子になんて恰好させてるんだ……!?」

「僕を変態みたいに言うのはやめてくれないかな、確かに僕が用意した服なんだけども」

「変態じゃないか……」

「やれやれ、これだから時代に囚われている人間は。婦女子が足を出したらいけないって? いい加減そんなマナーなくなればいいのに。人のみが持ち得る美しいモノを隠すなんて勿体ないだろう。ねぇアドニス?」

「さあ。私は服装なんてどうだって良いので。それより朝食です、どうぞ」


 アドニスと呼ばれた少女は変わった服を揺らしてテーブルの前まで歩むと、ワゴンに載せられていた皿を卓上に並べていく。白いシャツの上に着ているプラム色の衣装は見たことのない形状をしていた。ボタンや留め具はなく、袖がやけに広い。前で合わせてベルトか何かで留めているのだろうか。レースがあしらわれたベストを着ている為、そこまでは分からない。ふと、その上衣から覗いている短いフリルスカートがキュロットであることに気が付いた。動きやすい恰好をしているのだろうか、などと思案しつつ見つめていたら、ビスクドールのような顔ばせが振り向く。葬儀屋に見せていた冷ややかな目顔とは打って変わって、彼女は眉尻を下げて俯いた。


「申し訳ありません……この人でなしにお客様を任せるつもりはなかったのですが、ちょうど席を外していて……」

「今『人でなし』って言ったかい、アドニス?」

「どこか痛むところはありませんか? 傷の手当はさせて頂きましたが、我が主のせいで傷が増えていたり……」

「アドニス、彼に敬語は使わなくていいから僕にもうちょっと敬意を払ってくれるかな?」


 頭を下げた彼女の白髪がさらりと流れ、アネモネとレースの髪飾りがそれに伴われて垂下する。芸術品のような風付きは未だ見慣れることが出来ず、意識を奪われ言葉が出てこない。俺が噤口きんこうしている合間、主従関係らしい彼らは長息を吐き合っていた。


「私は貴方を信用していませんので、どうせまた嫌なことでも言って、挙句怪我でもさせたのではないかと心配なのです」

「僕はとても優しいはずなんだがね。そして彼の命の恩人だ。それなのに彼は僕に敬語を使わない。ほら、僕の助手である君がそんな無礼者を敬う必要もないだろう?」

「無礼者って、さっき謝っただろ。まあどっちでもいいけど、とりあえず話をさせてくれないか。聞きたいことがいくつもある」


 彼らの空気に染色されて目的を忘れてしまいそうになる。額を押さえ、脳で情報を整理した。


「失礼しました。まず紅茶を……」

「アドニス」

「……かしこまりました。えっと、御客人。君の名前は?」


 葬儀屋の指示に従ってか、口調を崩した彼女が俺の顔を覗き込む。柔らかなアルト声は彼女の雰囲気をも長閑のどやかにしており、少しだけ親しみやすく感じた。


「スヴェンだ。あんたは、アドニス……でいいのか? アドニスって、男性名だよな?」

「そんな些細なことに拘っていたら視野が狭まってしまうよ。私はアドニス・エーレンフェスト。よろしく、スヴェン」


 長い袖をふわりと持ち上げ、彼女の白手袋が差し出される。軽い握手を交わすなり、彼女はすぐさま踵を返した。木製のワゴンからティーポットを手に取ると、慣れた手つきで紅茶を注いでいた。

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