シーン3 逃げ込んだ路地

 街頭のない裏路地をやたらめったらに走った私は、逃げ込んだ路地で身体を震わせ、小さく丸めてしくしくと泣いた。

 頭の上から振る大粒の雨は容赦なく私をいたぶる。天気まで私の敵のようだ。

 もう疲れた。

 薬漬けで私を売ったママ。酒に酔っては暴力を振るうパパ。幼くて無力な弟。身体だけを貪る男たち。


 私は、誰の為に生きているの? いくら稼げば終わるの? これから一生、こんな惨めな生活をしなくちゃいけないの?

 学校のみんなはきっと、私のことなんて忘れているだろう。

 途端に無力さが襲ってくる。自己嫌悪、自己否定。

 どんな言葉で例えればいいかわからない、暗い真っ黒な闇が全身を包む。

 あんな男たちの玩具になんかされたくなかった。このままでは生きていけないと悟りだした。

 私の人生は、奴らに遅かれ早かれ蹂躙される。

 パパも、ママも、味方じゃない。

 私は吸われるだけ吸われて、蜜がなくなれば枯れる花になるんだ。

 生きていたかった。死にたくなかった。

 こんな気持ちはもういいのに。


 冷たい路地には人の気配もない。雨に混ざって腐った生ごみの匂いが立ち込めている。

 足元を見れば、買ってもらったお気に入りのパンプスもすり傷だらけだ。

 男たちに買ってもらったスカートもカーディガンも全て、びしょ濡れ。


 全てどうでもよかった。諦めてしまいたかった。放り投げたかった。

 ここに私という存在はいない。消えてしまいたい。そんな時だった。


「やあ、やっと会えたな」


 頭上から降ってきたのは男の声だった。突然の言葉にビクリと身体を震わせて視線を上げる。

 私の目の前には黒のハイカットスニーカーにジーパン。フードを被った赤いパーカーが聳え立っていた。長い前髪から見えるその顔は中性的で、男とも女とも思える。年の瀬からして二十代前後だろうか?


「あなたは?」

「あんたに呼ばれたからきたんだ。ナズだよ? 忘れたのか?」


 ぶっきらぼうにいう。ナズ? 聞き覚えがない。

 だが、なぜだろうか? 男の声を聞いた瞬間にあの夢のことを思い出した。喫茶店でココアを飲んでずっと待っていたあの誰か。急にその誰かが目の前の彼だと確信が持てた。


「あなたは……あの喫茶店の?」

「そうだよ。いつも甘いココアばかり飲んでいたな」


 その言葉で改めて確信した。それと同時にナズが人間ではないというのも理解できた。この土砂降りの中なのにパーカーの肩はおろか、スニーカーのつま先まで濡れていない。

 ナズはゆっくりと私に近づき、パーカーの腹のポケットから何かを取り出して私に差し出す。

 唐突に渡された何かを濡れた手で受け取る。目の前まで持ってくると、それが小さな砂時計だとわかった。


「それは今まであんたが受けた理不尽な不幸が溜まった砂時計だ。“対価の砂時計”って呼んでる」


 たいかのすなどけい? どっかのアニメか漫画の話のようだ。だけど、ナズの話には妙な深みを感じる。


「人が来るから俺は行く。お前の舞台は幕が上がったばかりだ」


 そういうとナズは踵を返し、ゆっくりと路地の向こうへと歩いていく。


「ねえ、待ってよっ! これなにっ! 助けてよっ!」


 目一杯声を張り上げる。だが、私の懇願など聞く耳を持たず、颯爽と物陰に吸い込まれるように消えていく。慌てて立ち上がって追いかけるが、角を曲がるとそこにナズの姿はいなかった。

 幽霊に出くわしたかのようにぼーっと立ち尽くす私に、冷たい雨が容赦なく打ち付ける。

 私は貰った砂時計に目をやる。どこにでもありそうなアンティーク調の砂時計。だが、不思議なことに、逆さにしても砂は落ちてくる気配がない。壊れているのだろうか? いや、とてもそうには見えない。

 ひとしきり砂時計を眺めた私は、諦めたようにトボトボと冷たい雨の中を歩くしかなかった。



 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―



 あれから色々とあって、私は上客の一人の家に辿り着き、宿を取らせてもらった。

 ママの裏切りを考えれば、もう家に帰ることは出来ない。だから件の上客の一人に電話を入れたのだ。

 電話したのは今年で二十五歳になる派遣の男。人生で一度も恋人はおろか、まともに女性と喋ったことがないという。そこで出会い系アプリで私のことを知ったのだ。初めて話す女性に緊張する彼は、逆に可愛いと思えた。ただ、肥満体型でブルドック顔なのが非常に残念なのだが。

 内気でオドオドとした彼は二返事で了承してくれて、家に着くころには着替えも食事も律儀に用意してくれた。この人だけはかなり信用している。それでも、金で繋がってるという縁だけは念頭にあるが。

 私はずぶぬれの服から着替え、出された食事にありついて、疲れた身体を準備してもらった布団の中に滑り込ませる。そのあいだ、彼は落ち着きのない視線を泳がせ、一定の距離で私のことを見守っていた。まるで躾された犬のよう。だからこそ、彼のことは嫌いになれないのだ。

 ほんとうならば、シャワーでも湯舟にでも使ってゆっくりしたいが、今日はいろいろとありすぎて、とてもそういう気にはなれなかった。ましてや、他人の家というのもその理由のひとつだ。

 すぐに私の意識は睡魔の中へと落ちてゆく。

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