一角獣とホワイトシチュー 14



「あっれー? それって、もしかしてもしかすると婚約者の代わり、とかじゃない? 鏡の中で一緒に居たいの、みたいな。それに、恩田さんの眼の中には見えないのってのもアレじゃね? 言えばタイプじゃなかったんだよ、やっぱ。だってオジサンじゃん? 四季さんのが若いしさ。つか、四季さんって普段から知らない人に、きゃっきゃ言われてそうなのに、その辺が鈍感すぎね?」


「……ん?」

 宗田くんの、どこの部分がとは言わないが余計なひと言に、テーブルの上に再び散らばった恩田氏の曽祖父の日記を集めていた僕の手が止まる。

 そこに糸が身を乗り出したかと思うと、宗田くんの目の前に置かれた写真を指で摘み上げ僕に手渡しながら言った。

 

「とにかく、シキさんの眼の中にこの女性が視えたのは確かです。それに清一郎さんによって偶々たまたまなのか、それとも故意なのか、手鏡を麻の葉文様の風呂敷で包み手提げ金庫に入れて仕舞い込んだことが手鏡にそれ以上の何かをさせる妨げとなったなったことは、間違いありません。ただ不幸にもそれ以来、この女性は中に囚われたままとなってしまった。ある時そこに誰かの顔が見えたら、助けて貰いたいと手を伸ばすのは当たり前のように思えるんです……それがシキさんだった理由……その辺りのことは、わたしにも良く分かりませんけれど」


「……しかし物を壊す、そんな即物的な方法で? ……手鏡を壊しさえすれば、そこに囚われていた清一郎の婚約者を放つことになるんですかね? そうすれば私が視えている絹糸も……視えなくなる、とか……?」

 聞いて疑心と期待を込めた視線を僕たちに向ける恩田氏を、バッサリと切り捨てたのもまた、宗田くんだ。


「まあ……中の人を救う方法は、単純にそれしかないような気がするのはオレだけじゃないよね? 出口を作るってやつ。あ、違うや言い出しの高桜さんも、もちろんだけどさ……四季さんだってそう思わない? だけどそれと恩田さんの視える視えないは、別じゃね? それは分っかんないワ」


 ですよね、と肩を落とす恩田氏に僕は「そう言えば原因が手鏡と知っていて、それを壊そうとかは考えなかったんですか?」と聞けば、酷く恐ろしいことを言われたように真っ青な顔で、勢いよく首を横に振る。


「ま、まさか! これ以上、恐ろしいことが起こったらどうするんですか?! い、いッ今だって不安でしかないですよ。そんな力任せなことして……どうなるかなんて、誰も分からないのに。手鏡の中から出た何かが、ひょっとしたら……」


 まあ、その通りだよなと宗田くんがしみじみ頷いているのが目の端に見えた。

 いや、うん。まあね……。


「では恩田さんは手鏡を割ることで、この女性が何か恐ろしいものに変わってしまうと思うんですか? 恩田さんに視えている絹糸は、恐ろしいだけのものですか? わたしはシキさんの話から、それだけじゃないのを感じましたし、それに、シキさんの眼の中にいる彼女からは戸惑いと寂しさしか感じられないんです。怨念のようなものは、感じられません。誰かを怨むようなことのない、そんな日々をこの方は過ごしていたんじゃないでしょうか? 写真を見ても分かるように女性というよりも、まだ少女に近いと思いませんか? またこれらの手紙からも分かるように婚約者という存在に憧れを抱いて、夢を見ているような女性だからなのかもしれません」


 この方、と言いながら糸が僕に身体を寄せたのは、持つ写真を覗き込む為と分かっていながらもその柔らかく触れる感触に思わずどきりと胸が跳ねる。

 何故だろう。この写真に映る女性を見て、このとき乙女に想いを寄せるという逸話のある不思議な生き物を思い出したのは。


 甘い匂いが糸から、ふわと香った。


「どう転ぶかは分からないけど……この女性を自由にしてあげられるかもしれないなら、もういっそのこと、割ってみたら分かるんじゃないかな」


 糸の言葉にほだされたか、これまでの堂々巡りを見るに見かねたのかは秘密ではあるが、僕の放った言葉が決め手となって風呂敷で包まれた手鏡がテーブルの中心に置かれた。

 手鏡を割ったことによって何が起こるのか分からない恐怖で青褪めた恩田氏の目の前で、風呂敷をゆっくりと捲る。


 現れた手鏡は、最初に見た時と同じように何の変わりなく静かにそこに在るだけだ。

 美しく手の込んだ意匠の、手鏡。


「……誰が」

 割るの? と言う宗田くんに、わたしがと伸ばした糸の手を遮る。


「僕が、割るよ」

「え……でも……」

「僕の眼の中にいるなら、そこはやっぱり僕でしょ?」

 手鏡に置かれた糸の手に僕の手を重ねると、その心持ち緊張している顔を真っ直ぐに見て微笑んだ。これ見よがしに咳払いする宗田くんを無視して、握った糸の手をそっと持ち上げ、その下にあった手鏡を反対側の手で取る。しっくりと掌に馴染むその手鏡を覗き込めば、深い闇がこちらを見返すのだった。


 その吸い込まれそうな闇を見つめたまま、僕は手鏡を捻るようにして力を加えてゆく。


 眼の奥にちりと痛みを感じた瞬間、手鏡の中にある闇を裂くように大きな亀裂が走ると同時に、伽羅に似た薫りが強く鼻を掠めた。


「……あ」


 糸の漏らす声が聞こえた。

 宗田くんと恩田氏の、顔の前に漂う何かを手で払う仕草を見れば手鏡から埃が舞ったように視えたのだろうか。

 その時、糸の漏らした微かな声に重なるように僕の耳に触れた『貴方と居られるなら鏡の中でも良かったのに……』と言う声は僕以外の誰にも聞こえなかったようで、薫りと共にふっと消えたのだった。


 憑き物が落ちたような、とは良く言ったもので、途端に絹糸が視えなくなったことですっきりとした顔になった恩田氏が、割れた手鏡を持ち帰ってからきちんと供養することを約束した後、テーブルの上のものすべてを片付け終え別れを告げて席を立つまでのその一連の動作を、僕はぼんやりと眺めていた。

 小さく頭を下げ鞄を抱えるようにして席を離れた恩田氏が、別れを済ませた後は振り返ることなくドアの外に消えようとしている。

 恩田氏が居なくなったこのテーブルでは、せっかくだからと宗田くんが席を移動し糸と二人メニューを広げ頭を突き合わせていた。ひとり、姿を目で追っていた僕は、恩田氏が店を出るそのドアが完全に閉まる前に徐に立ち上がると、彼の後ろ姿が見えなくなる前に走り出していた。

 店を出てまもなく追いついたその背中に向かって僕は、ずっと聞きたかったことを聞いてみる。


「教えて頂きたいことがありまして……僕の身体に纏わりつく絹糸は恩田さんの眼に、どのように視えていたんでしょうか?」


 去り際に呼び止められた恩田氏は少し驚き、それからすぐに僕から視線を逸らすと「……視えなかったんです」と消えてしまいそうな声で答えた。


「北村さんと、初めてお会いした時から……ずっと。その……だから……変に怖かったと言いますか……上手く言えないんですが……えっとその……何をしても大丈夫なんじゃないかと、助けて貰えるんじゃないかと、良く分からない甘えがあったと言いますか……なんだか最後まで色々とすみません」お世話になり、ありがとうございました。

 そう言うと軽く頭を下げて、再び僕に背を向けた恩田氏の姿が、まるで逃げるように人混みの中へ消えてゆくのをただ呆然と見つめていた。


 僕には、無い……。


 思わず両手を眺める。

 その微かに震える手を、ぐっと握りしめた。彼女が消えゆく際に、僕の耳に寄せた声がまた、聞こえたような気がした。


 『貴方と居られるなら鏡の中でも良かったのに……残念だわ。こちらに引っ張ろうにも貴方には糸が無かったの』



「何? どーしたの? 何かあった? 恩田さんに何か言い忘れたとか……四季さん?」


 声を掛けられ振り返ると、そこには突然店を出た僕を追って来た心配そうな顔の宗田くんが居た。

 僕は笑顔を作る。


「いや、なんでもないよ」と――。


 

 

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