道化師と林檎パイ 6



 ……それはまあ、こうなるよね。


 夕闇迫る時間、宗田くんから今日の放課後は糸を送ることが出来ないと連絡を貰った僕は、次第に藍色が濃くなる空に滲む街の光に照らし出される糸の後ろ姿を、少し離れたところから眺めながら歩いていた。


 それにしても、いつの間にか随分と日が短くなったと思う。

 これから、夜が多くなる。

 夜の寂しさは、どこから来るのか。


 離れて歩く糸が、僕に気づかないと良いと思う一方で、気づいて欲しいとも思うその気持ちの矛盾に、焦れる。

 普段なら何気なくしている足の運び……地面に踵をつき爪先が離れる、を左右で繰り返すその感触を今日ほど意識することは、おそらくこの先には無いだろう。

 

 

 糸の姿勢の良い歩き方が、好きだ。


 ひとつを認めてしまえば、次々に押し殺していた僕の感情が息を吹き返すのが分かる。

 


 誰にも等しく季節は巡るのだ。そこに、どのような思いを残しても否応なしに。



 夕方を過ぎる頃から、少し風が出てきた所為せいもあるだろう。


 歩くたび糸の長い髪とセーラー服の襟が揺れるその様子は秩序と無秩序を繰り返し、その後ろ姿を見ているだけで心が散り散りになりそうだった。


 離れて見守る中、何事もなく家まで帰り着きそうだな、と半分くらいまで来た頃ふと、何かが僕の頭の中を引っ掻く。

 いつのまにか紙で指を切っていたくらいの小さな傷が、知らない時は何ともなかったのに気づいた途端に痛み始めるような、微かな間。それは、脳が見たものを処理するまでの僅かな間だった。


 ……ああ。

 身体が、強張る。

 頭の先が絞られたように、ぎゅっとする。


 目の端に映るあれは……稜だ。

 間違いない。


 どれほど時間を隔てようと、どんなに距離があるとしても、僕が彼奴アイツに気づくのは必然に違いないのだと脳が告げる。

 糸の歩く先に見える稜の立ち姿を認めて、身体の芯が冷たくなるのを感じた。

 もしや偶然? まさか。

 あれは待ち伏せ? そうかもしれない。

 稜の方は、僕にはまだ気づいていないようだった。携帯スマホ片手に、何かを熱心に見ている。糸を待っていたにしても多分、僕の姿さえなければ、そのまま擦れ違うだけだろう。僕はこのまま糸に背を向け、来た道を戻るのが正解だと分かっていた。

 そうすればきっと、何も起こらない。起こるはずがない。


 ……でも、違ったら?


 送られてきた写真を思い出していた。

 これまでの予測出来ない稜の行動が、僕を惑わす。引き返したくても、身体が言うことを聞かなかった。

 そんなことをしている間にも、徐々に二人は近づいてゆく。

 その時――。

 稜が携帯スマホから顔を上げて、糸の姿を認めたような気がした。糸の方へ向かって足を一歩踏み出すのが見えた。

 それを見て、僕の取り繕っていた平静は簡単に崩れる。



「……糸っ!」


 気づいたら走り出していた。

 走っているから胸が苦しいのか。

 胸が痛いから走るのか。

 それすらも分からないまま、地面を蹴りつけ糸の後ろ姿に向かって駆けた。

 目の前にある制服から覗く白く細い手首を、手を伸ばし掴む。

 その確かな感触に、躊躇うことなく強く自分の方へ引き寄せた。

 糸の身体が、跳ねるように僕の胸に飛び込んで来たのを捕まえ背に回す。

 稜と目が合う。

 彼奴アイツは端正な顔を歪ませ、笑った。


「……久しぶりだな?」


 心が動かされる度に、罪悪感でいっぱいになるのはこの先も続くだろう。

 僕の命が続く限り。

 間接的であろうと彼女の人生を奪ったのは、僕だから。

 直接的な方法で彼女の心を動かすことは、もう出来ないのだから。

 

 ……それを知っても。


 糸の手首を必要以上に強く握りしめているのは、分かっていた。だが、その手を弛めることは出来ない。 


 それは疑惑を、確信へと変えてしまった瞬間だった。


「稜……ッ」

「四季……へぇ? やっぱり、それがおまえの新しいオモチャなんだ?」

「……ッ!」

「案外早く良かったよ……じゃあまた、な」

 にやりと笑って稜は片手を上げると、僕に向かって歩いてくる。擦れ違う時に僕の肩に触れるかと身構えるも、視線すら寄越さずに行き違うと背を向けたまま、ひらひらとその手を振ってみせた。

 そのまま一度も振り返ることなく歩く、稜のその自信溢れる足取りは、以前と少しも変わることがない。 


「……おもちゃ? わたしはシキさんの玩具なんですか?」


 背後に庇った糸の小さな声で我に帰った。

「ちっ、違ッ……」


 慌てて引き寄せたその細い手首を握りしめたまま、糸と向き合う。

 真近にある糸の僕を見上げる真っ直ぐ射抜くようなその視線に、どくんと胸が高鳴る。

 微かに触れ合う糸の柔らかい身体が、鼻に触れる香水に混じる糸の身体の匂いが、僕の正常な判断を鈍らせ狂わせようとする。


「わたしは、シキさんの玩具になるつもりはありません」

「いや……だから、違う……」

「……弱くないですから」

「え……?」

「大丈夫ですよ? わたしは、そんなに弱くないです。シキさん、知りませんでしたか?」


 糸は一瞬、僕を睨みつけるようにした後、ふっと表情を緩める。

 その顔に魅せられ掴んでいた手が離れた。


 ……笑っ……た?


 そして僕の手の離れた糸は、その鮮やかな笑顔を僕に残したまま、夜が始まった秋の気配が冬に変わる街に足を踏み出してゆく。


 糸の手首を掴んでいた僕の掌は、早くも失ったその感触を求めて疼き始めていた――。











 

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