猫と鯖雲 9
――そのコ、だいじなら、きヲつけて。
そう、まもなクだよ。コワイの、クル。
友花さんから再び事務所に電話があったのは、志乃さんに会ってから三日後のことだった。
「お茶に来ませんか、と言われたよ」
受話器を置きながら糸の方を振り返る。
読んでいた本から目を上げた糸は、一瞬だけ考える素振りを見せた後「分かりました」とだけ言ってまた本に戻る。
「えっと。これから……なんだけど?」
部屋の隅にあるデスクに歩み寄り、その引き出しから事務所の鍵を取り出して糸に向かって掲げて見せた。
「やあ、いらっしゃい北村くん。高桜さん」
おっと、正しくは一人、ではなかった。
僕たちに座ったまま声を掛けた宮藤氏の膝の上には、三毛猫が丸く山をつくっていた。
「お招き頂きまして、ありがとうございます」
挨拶を終えてしまえば、友花さんがお茶の支度をしに席を立っている今は、ただのんびりとこうして三人と一匹で庭を眺めているばかりの静かな時間。
「……あれから、みつるさんとは何かお喋りしましたか?」
宮藤氏の膝の上で丸くなる猫を見ながら糸がそう尋ねる。
「お喋り……か。そうだな。そう言われるとなかなか難しいところがある。そうだろう? みつるが喋ることを受け入れてはいるが、大抵の場合みつるの一方的なもので実際のところ会話が成り立っているわけではないんだよ。それに、みつるもまた普段はほぼ、猫語しか話さないからなぁ……。自由に会話が出来るのをお喋りというのなら、以前も以後もそれはないな」
優しい手つきで、みつるの背を撫でる宮藤氏は、その愛しげな眼差しを膝の上に向けた。
「おはよう、と言っても必ずしもその返事が返ってくるとか、そういったものもないのですか?」
「ああ、そうだね。実に気紛れで、またそれもみつるらしくて」
優しい手つきで、みつるの背を撫でる宮藤氏は、少し間を置き「自由にお喋りが出来たら、どんな話をするのだろうね……だけど、お互いに思っているような気さえするんだよ。意思の疎通を図ることは、長く一緒に居れば共通の言語を介さなくても、ある程度可能なんじゃないだろうかってね? どうであれみつるは、私の唯一だよ」と再び視線を下に、宮藤氏は愛しい者を見る目をした。
「先日の『真っ黒』に関しては、どうですか? その後は……」
「そうだな……友花のしていることを見て、ようやく鈍い私にも分かったことがある。とだけ言っておこうか」
みつるは、何故言葉を話すようになったのだろう。それとも、みつるに変わるところは何もなく、宮藤氏や志乃さん僕たちの方が、みつるの言葉を断片的に分かるようになったというだけのことなのだろうか。
そちらの可能性の方が大きいような気がするが、例えそうだとしてもその理由は……。
分からないままの、そんな不思議があって良いような気がした。
まだ遠く友花さんが、紅茶の入ったポットと茶菓子を運んで来る音が聞こえてくる。
「やあ、お茶の支度が出来たようですな」
宮藤氏のそれが、この話を打ち切る合図だったとも言えよう。
それからの僕たちは他愛のない話に終始し、このお茶会の意味するところを図りかねるも、宮藤氏が単に賑やかなひと時を過ごしたかっただけなのだろうと思われた。
そう思わせること。
つまりは、僕の仕事は終わったということなのだろう。
些細なことにも明るい笑い声を絶やさない友花さんの案内で庭を歩く糸に、それを温かく見守る寛いだ表情の宮藤氏と僕の周りに薫るラベンダーのフレバーティーが、この場に居ない人を、強く思い起こす。
しかしそれが何を意味するのかは、僕と糸にはもう関係のないことだった。
「ご馳走さまでした」
お暇を告げるべく宮藤氏に頭を下げた僕と糸は、多分これきりになる彼等との別れを前に、ニャアと鳴いたみつるの頭を撫でる。
その時だった。
――そのコ、だいじなら、きヲつけて。
そう、まもなクだよ。コワイの、クル。
僕だけに聞かせるような小さな鳴き声が、みつるから視線を背を向ける一瞬、確かにそう言ったのを聞いた。
宮藤氏の腕に抱かれたみつるは、満足そうな顔をしていたように見えたから、危うくその言葉を聞き漏らす所だった。
どういう意味だ?
怖いのが、来るとは。
そっと隣りにいる糸に目をやる。
小さく微笑み、宮藤氏に抱かれたみつるの顎の下をかりかりと優しく掻いているのを見れば、相変わらず糸にはその声は聞こえていないようだ。
僕と一緒にいることで、彼女に災いが降り掛かるのだとしたら……。
糸を失うのを、怖いと思った。
そのことに気づかない振りをするのは、もう限界なのかもしれない。
自分には大切なものを掌に載せることは出来ないのだと、改めて思い知らされたような気がした。
「あの……四季さん。少し、良いですか?」
考えに耽る僕を、現実に戻したのは友花さんだった。
「あ、ゴメン。何だろう?」
にっこりと笑う友花さんの、その様子を見ればそれは、何を言おうとしているのか聞かずとも分かっていたようなものだ。
「今は、二人だけで……」
そう言った後、ちらりと友花さんは僕の隣りにいる糸を、申し訳なさそうに見る。
僕は敢えて糸の方を少しも見ることなく、友花さんの背に手を置くとその場を離れるように促した。
僕の背中に突き刺さる糸の視線が、そんな視線を真っ直ぐに向けられるその想いが、それに応えようとしない、応えることが出来ない自分が酷く胸に痛い。
友花さんと僕が話し終えた後、後ろを振り返ったその先に、あるはずの糸の姿は、既に無かった。
それから僕は、糸と顔を合わせていない。
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