猫と鯖雲 8


 友花さんと別れ、事務所までの帰り道、いつものように二人に戻っても糸の寡黙さは変わらなかった。

 やや足元に視線を落としたまま、何かを考えている糸の横顔をそっと眺める。


 一体、何をそんなに悩んでいるというのか……。まあ、志乃さんの事だろうけど。


 その柔らかそうな唇を少しきつく引き結ぶ様子はなんだか痛々しく、それに手を触れて解きたくなってしまう自分に呆れる。

 ……そんなこと出来る筈もないのに。


 何の約束もしないまま、あの部屋を出た僕たちだったが、志乃さんは、いずれ近いうちに宮藤さんの御宅へ、みつるの言葉の誤解を解きにいくだろう。

 それがどんな結末を迎えるのかは分からないが、多分、友花さんが考えているようにはいかないと思った。


「……上手くいきますか? シキさんは、どうなると思いますか?」

 突然、糸が僕の方を向いたので、彼女を見つめていたのがバレてしまわなかったかと、少し焦ってしまう。


「まあ、雇い主と使用人ではなくなるよね。厳密に言えば今だってもう違うけど、何しろその期間が長かったからね……良くて……友達になれるかな」

 糸が小さく首を傾げた。

「良くて、お友達……ですか」

「一足跳びには、恋人になんてなれやしないよ。友達だって難しい……君だってそのくらいは、分かるよね?」

「……苦しいですね」

「うん。まあね」そればかりは、当人たちにしか分からない、誰も何も出来ない仕方のないことだ。


 また黙り込んでしまった糸だったが、今度の沈黙は長くは続かなかった。


「友花さんって、可愛らしい人ですね」

「そうだね」

「シキさんが以前、お付き合いされていた方は、どんな人でしたか?」

「……え?」

 唐突なその問いに、何と答えたら良いのか分からず立ち止まってしまう。

「友花さんみたいに、明るくて素直で可愛らしい人でしょう?」


 出会った頃は……そうだった。

 やがて僕との関係に疲れてしまう迄は。


「……どうして?」

「友花さんに会ってから、シキさんを見ていて何となく……そんな気がしたんです。シキさんが、なんだかいつもと違うから」

 糸が僕を覗き込むように見ていた。

「そう……だった、かな?」

 何が違うというのだろう。

 そう言われ、思わず見られたくないと顔を背け、片手でさりげなく鼻梁を擦る振りをして、表情を覆い隠す。


「気安い態度っていうんでしょうか。分かりやすい笑顔とか、優しい言葉とか……これまで、会ったばかりの人にシキさんはそんな顔を見せたりしなかった」

「……見ていて……分かった?」


 背けて覗いた横目にも、こくりと糸が小さく頷くのが見える。

 思わず、ふうと溜め息が溢れた。


 そう、友花さんは、あの頃の出会ったばかりの彼女あの子に良く似ていたのだ。


 誰かの代わりにしようとしたわけじゃない。それでも無意識のうちに、出来なかったその誰かの代わりでも良いから、優しくしたいと思う自分が居たのは確かだ。

 自分の罪は、消えない。

 ……誰もその代わりになんてならないと、分かっているのに。


「シキさんは……いえ、何でもないです」


 そのまま何とも無しに、どちらからともなく再び歩き出した。


 気不味くなってしまった雰囲気を誤魔化してしまいたく「途中何処かに寄って、お茶でも飲んで行こうか……?」と糸を見れば店のガラスに映る僕たちからまた、ついと目を逸らしているのを見てしまう。


「さっきから、どうしたの?」


「……わたし、気づいてしまったんです」

「え……何に?」

 

 糸が逸らした視線の先には、ガラスに映る僕と並んで歩くセーラー服姿の彼女がいる。


 そのあと何かを振り切るように、歩く速度を上げながら呟いた糸の言葉は、僕には届かないまま靡く彼女の長い髪と風に乗って消えた――。

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