猫と鯖雲 7



 「まあ、友花さん……声が聞こえたものですから。あの……こちらは?」


 扉を開けたまま心配そうに、友花さんと僕たちを見比べているのは、宮藤くどう氏よりも、ひと回りほど歳下の女性だった。

 自分を押し殺すことの出来る、優しく、頑固な女性。それでいて、また同時にしたたかでもある。


「志乃さんに、この前の返事を聞かせて貰いたくて、来てしまったの」

「……それは、この間」

「志乃さん。立ち話は、ご近所に迷惑になるから……ね?」


 有無を言わせない様子の友花さんに、驚いてしまう。

 すっかり大人しくなってしまった糸が、気掛かりではあったが、見れば何かを考えているようだった。


「分かりました……友花さんには負けるわ」皆さんどうぞ、入って下さいと、部屋の中へ招き入れて貰う。


 この古いアパートは玄関から入ってすぐ脇に台所と、その奥の部屋の中が見える。その、がらんとした必要最低限の物しかないこの部屋で志乃さんは、何を日々思って過ごしていたのだろう。

 小さな丸い座卓の前に座るように促され、僕たちは縮こまるようにしてそこに並んだ。


「志乃さん……お願いですから、お祖父さまの所へ戻って下さい」

 座るなりいきなり本題に突入する友花さんに、お茶の支度をしようとしていた志乃さんは笑い声を上げた。


「まあ、まあ、友花さん。お友達がびっくりなさっていますよ」

「この方たちは知っていて、ついて来てくださったの。だから……」

 勢いよく話し始めたものの、それ以上は何と続けたら良いのか分からなくなってしまった友花さんが、唇を噛みしめる。

 それからは、直ぐ傍にある台所で背を向け支度をする志乃さんを見ながら、湯が沸くまでのその短いような長い時間、誰もが押し黙ったまま、この気不味くもある雰囲気の中、なぜか心地よく聞こえる台所の音に耳を傾けていた。


 やがて優しく食器の触れる音と共に、ラベンダーの香りを含んだ紅茶の入ったティーポットとカップやソーサーが志乃さんによって運ばれて来るのを、僕たちは大人しく、まるで小さな子供に戻ったような素直さで、見ていた。


「まだ、もうしばらく蒸らしてからカップに移すわね」


 柔らかな手つきで、温まっているカップをそっと確かめている志乃さんの顔を、さりげなく覗き込むと瞳の奥が微かに揺れているのが分かる。


「ラベンダーのフレーバーティー……茶葉は、ニルギリですか?」

 はっと顔を僕に向ける。

「貴方は……友花さんの……?」

「北村、と申します。いいえ、違いますよ。僕は宮藤さんのみつるに呼ばれて、少しお手伝いを」

「……みつる。そう……元気でしょうか?」


 僕から顔を逸らし、カップに紅茶を落としてゆく手が、最初だけ少し震えて見えたのは、気のせいではないだろう。

 志乃さんも、みつるの声を聞いたのだろうか?


「みつるも、お祖父さまも、志乃さんが居なくて寂しくしてるわ」


「……友花さん、そんな事ないわ。旦那さまが寂しそうに見えるのは、奥さまが居られないからよ」


「志乃さんも、居ないからよ。……ねえ、誰も志乃さんに、お祖母さまの代わりをして欲しい訳じゃないの。分かっているでしょう? ただ……」


 ティーポットを手元に置き、静かに首を横に振る志乃さんは哀しげに笑って言った。


「違うのよ。友花さん、違うの……私の方が欲張りになってしまったのよ。代わりになんてなれない、なれる筈もないのは分かっているのに、少しでも振り向いて欲しい、あの方が私を見つめる目に愛が浮かんでいないか、なんて浅ましく思ったり考えてしまう醜い自分に、疲れてしまったの」

 傍に居るだけでは、満たされなくなってしまった想い。

 想うだけで幸せだったあの綺麗な恋心が、真っ黒でどろどろとした苦しいものになってしまったのは、欲が出てしまったから。


「お祖父さまは、ようやく志乃さんの気持ちに気づいたばかりよ。それなのに、逃げ出してしまったのは志乃さんじゃない。誰も、お祖母さまの代わりなんて、求めていないの。でも傍に居なければ、何者にもなれないのよ?」


「……友花さん、もう良いんです」


「だったら、いっそのことさっぱり振られてしまえば良いわ。以前は叶わないと分かっていたから我慢が出来た。ひっそりと想うこともまた、苦しくても愉しかった。だけど今は叶うかもしれない、いや叶わないかも分からないと迷っているから、想いが何処にも行けず苦しいんでしょう?」

 

 なんて極端で、それでいて真っ直ぐな友花さんの言葉だろう。

 それが、出来ればどんなに良いだろうか。

 志乃さんも今となっては、想いを失くしてしまうと考えることすらきっと、恐ろしいだろうに。


「だから……お願い。志乃さん、一度戻ってお祖父さまに会って下さい。みつるの言葉、志乃さんも知っているわよね。みつるに志乃さんの気持ちを知られてしまったから、逃げ出したんでしょう? せめて、みつるの言葉の誤解を解いて、お祖父さまの心配を少なくしてあげて」


「……誤解?」


 それを聞いた志乃さんの瞳から一筋の涙が溢れ落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る