猫と鯖雲 10



 ヘデラの蔦が絡まる喫茶店の古色蒼然とした木枠の窓を外から覗き込み、店の中を確認すると【closed】のドアプレートを無視して扉を開けた。

 途端、マスターの低い声が聞こえる。


「……そうか。そんなことがあったんだね。うーん。今は誰とも、お付き合いはしないと思うけどなぁ。それに誰かさんの代わりなんて、絶対にありえないよ。昔のことが尾を引いているなら尚更、さ。まあ、でも四季くんは昔から無自覚に女性をたらし込んでいるようなところがあるから、そこは厄介だよね。そうでなくともあの顔で、優しくされたりしたら大抵のコは勘……違……や、やあ、しまった。いらっしゃいませ……ってアレ?」


「鍵、開いてましたよ。……本人のいないところで、何の話ですか?」

 まったく油断も隙もあったものじゃない。


 マスターの前で、こちらをちらとも振り向かないその姿を横目に、そっと小さな溜め息を吐きながらカウンターに座る糸の後ろを通りいつもの席に向かう。

 少しだけ、実に全くバツの悪そうな顔をしたマスターが、糸に軽く目配せをしたのを見ながらいつもの馴染んだスツールに腰を掛けた。


 あれから、糸が事務所に顔を出さなくなって二週間。


 三毛猫の、みつるのあの言葉を考えずとも、もしかしたら友花さんのこと以外で事務所に来れない何かあったのかもしれない、と思う一方で、おそらくはそうではないと分かっていた。

 友花さんと僕の話を聞かせなかった所為で、糸が一人去ったあの日。普段ならいつだって用もないのに毎日のように事務所を訪れていた彼女が、みつるの言葉はさて置き、ぱたりと姿を見せないことに不安になったのは、二人でいることが常態化してしまっていたからだ、と下手な言い訳を自分に聞かせながらこの毎日を過ごしていたのである。

 、と。


 果たしてそれが良いことなのか悪いことなのかと問われたら、何と答えたら良いのだろう。誰にとっての、良いか悪いかでその物事は変わってくるのは間違いない。


 ただ、糸の不在は、僕に考える時間を与えるに充分なものだったと言える。


 ただ何もないとは思うが、それでも万が一、彼女の身に何かあったとしたら? 様子を見に行くべきか、そうでないのか逡巡しながら、ひょっとすると今日あたり階下したの喫茶店に居るのではないだろうかと顔を出してみたところ、案の定マスターと話す糸を見つけて、先ほどは、思わず安堵の溜め息を漏らしたのだった。


 その他に何かあったわけじゃないのだと。

 


「二人で僕の悪口とは、穏やかじゃありませんね?」

 カウンターの綺麗な木理に落ちるダウンライトに照らし出された自分の影の上に腕を乗せて、糸とマスターを交互に見る。


「ややッ。ま、まさか、違うよ。ねえ? 糸ちゃん?」

 とってつけた様子で布巾を手に取り、ロートを磨き始めたマスターとは対照的に

「……シキさんは悪口を言われるような何かをしたという自覚でも、あるんですか?」

 と、どこか澄ましたような、見方によっては誰にも悟られぬように痛みを堪えているかにも見える顔で糸は、僕の方へと向き直り言った。

 ――ようやく、二人の目が合う。


「い、糸ちゃん……?」 

 その言葉に、マスターがあたふたと慌てながらも持っていたロートを、丁寧な手つきで静かに下に置いた。


「うーん? ナイ、かな?」

 僕は頬杖をつき、目を細め糸を見つめる。

 手を伸ばし、糸の髪のひと房を優しく掬い上げ、手から溢れるままにそっと落とした。はらと落ちる髪の音に胸の奥が痛い。

 先に視線を逸らしたのは、糸の方だ。


「……狡いです」

「うん」


 どうしても、れずに居られなかった。

 じっと見つめられ頬を染め俯く糸を目の前に、マスターまでもが赤く頬を染め「四季くん……」と呟きながら、胸にきつく両手で布巾を握りしめているのは、その先の何かを期待されてのことだと分かるけど、僕はそれに乗るつもりはない。


 ――乗るなら、こっちだ。


「そもそも依頼人との関係がどうなろうと、それは契約には含まれていないからね。だから何を持って違反というわけでないし、それに関して何かを言われる覚えはないよ」


「し、四季くん?! それは……」 

「……つまり友花さんと、お付き合いするってことですか?」

 糸が伏せていた顔を上げ、僕を見る。


「さあ、どうだろう。だけど……君には関係のないことじゃないかな?」


 その瞬間、真っ直ぐに僕を見ていた糸の顔から、血の気の引く音が聞こえたような気がした。

 整ったその顔をすっかり青褪めさせた糸が、姿勢よく席を立つのを僕は黙って見つめた後、ついと目を逸らす。

 糸が喫茶店の扉の外へ飛び出して行くのを、見ていられなかった。

 なぜなら僕は呼び止めることも、追いかけることも出来ないから。


 糸が出て行って暫くの後、マスターが重い口を開いた。

「どうしてだい? あんなことを言うなんて……。糸ちゃんの気持ちに気づいているんだろう? それに、四季くんだって……」


「……彼女の僕に対する気持ちは、本当に恋ですかね? 多分、違うと思いますよ。彼女が初めて人と向き合ったのが、たまたま僕だったというだけで……きっとそのせいで勘違いしてしまっているだけなんじゃないかな」

 糸の髪に触れた手を、眺める。


 そんなことはない、そんなものじゃない、とマスターは力なく首を横に振る。

「だとしても、四季くんは? 側で二人を見ている限り、少なからず君だって……」


「マスターは、知っているじゃないですか。僕は……心を動かすことなんて、許される訳がない。それなのに誰かを好きになって良いわけがありませんよ、ね? それにそもそも彼女に恋をして貰えるような、そんな大層な人間ではないですし。それだから、彼女がもっと周りを見るようになれば分かる筈です。僕なんかじゃなくて、もっと相応しい人がいるってね」

 

「そんな……じゃあ依頼人のお嬢さんとも……」


 あの日、友花さんが僕に何て言ったのかは、僕だけの秘密だ。


「ええ。いまは、ああ言いましたが、そんなつもりも全くありませんよ。それに彼女が僕に言ったのだって、愛の告白でも何でもありませんし。お互い一目惚れならまだしも、そんなことでもない限り仕事で知り合ったばかりの女性を好きになるなんて、僕にはその類いの器用さなんか持ち合わせていないですからね」


 ……一目惚れ。


 その言葉で、あの春の日、菜の花の中に立つ糸を思い出したのはどんな訳があるというのだろう。黄色く烟るような河原の土手、その青く水を湛えたような空とのあわいに、すっと背筋を伸ばした彼女の姿を――。


「それに、まだ彼女は引き返せる……」幼い恋心を自覚したばかりなのだから。


「……四季くん、それはあまりに傲慢だ。他人の気持ちを決めつけ無視するだけじゃなく、言葉にすることさえ許さず、初めから聞こうとすらしていない。……そうじゃないかね?」


 糸を想い、ふっと笑みが溢れる。


「大切なものは、遠ざけるに限るんですよ」

 そして視線を彼女の髪に触れた掌に落としたまま、呟いた。


「え……それって……つまり……」


 ――そのコ、だいじなら、きヲつけて。

 そう、まもなクだよ。コワイの、クル。


 みつるの言葉が、再び脳裏に浮かんでは消える。


 僕はそれ以上何も言わずにマスターに小さく頭を下げると、糸が出て行った同じ扉を後に、誰も居ない事務所へと戻る暗く翳る階段を上った。

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