第6章 秋ふたつ目

道化師と林檎パイ 1



 


 あれから銀杏の葉はすっかり黄色く色づき、外は鮮やかに秋が深まり始めた。

 糸の姿を見ることがなくなって随分が経つ。


 冷んやりとした薄暗い階段を上り、事務所の硝子扉を開ける。その、がらんとした部屋を目にする度、ここがこんなにも静かで寂しいところだったのを、僕はすっかり忘れていたことに気付かされるのだ。

 呆れることにそれを何度繰り返しても毎回同じように驚き、扉の前で一寸立ち止まる自分がいる。

 今だけ、だ。

 そうこれは、ほんの少し。

 全ては元に戻っただけで、やがて時間が経てばまた、糸と出会う以前の頃の自分を取り戻すだろう。

 そんな心許ない願いにも似た気持ちで、毎日をやり過ごしていた。


 しかし、困ったことに一人になった部屋に居ると、過去の亡霊が僕を追憶へと誘いに来るのだ。そのような日々を送る中で、気づいてしまったことがひとつある。

『不思議なことは身近にあるけれど、それに気づくかどうかはまた、別の話だ』とは、糸に向かって以前自分が口にした言葉であるが、どうやらそれは僕にも当てはまるということだった。


 本当に彼奴アイツは彼女と一緒に、身を投げたのだろうか?


 僕の恋人と心中をした、僕の親友の未だに見つからない死体。

 もしかしたら……。


 彼女が飛び降りた崖の上に立つ自分を、何度夢に見たことだろう。

 そこで僕は、遥か下に打ちつける波が岩に当たって細かな白い泡に変わるのを眺めながら足を踏み出そうとするものの、決まって自身の体が砂のように脆く崩れ大気に霧散し、飛び降りることすら出来ないまま風に吹かれたところで目が覚めるのだ。


 僕は知らない。

 あの冬の日の空は、どんな色をしていたのかすらも。

 鉛色の空だったのか。

 それとも紺碧の海へと続く、吸い込まれそうなくらいに青く透明な空だったのか。

 崖の向こう、二人が身を投げたのを僕がこの目で見たわけでない。

 だから何度となくその場面を想像するのだ。それはその都度、様相を変える。

 ある時は、二人抱き合うように。

 また別の時は、固く手を繋ぎ。

 笑顔で、泣き顔で……。

 常に二人の姿を、想像してきた。


 もしも、それが間違いであるなら?

 

 同じく飛び降りた筈の彼奴アイツの痕跡が少しもないのは、どういう訳なのか。

 あって然るべきだった。


 だが崖の下の岩に残されていたものは、波に洗い流され、何処かへ攫われ、飛び降りた崖とは違う海岸に打ち上げられた彼女の無残な様子の身体は、今や骨となり墓の下。

 それは真実を語る術を持たない。

 そもそも直前の電話たったひとつで、どうして彼奴アイツも一緒に飛び降りたと思っていたのだろう? 

 彼女を死へと追いやった罪悪感が、僕の全てを鈍らせていたからだと、そんなことは言い訳にもならない。これまで何ひとつ確かめもしなかったのは、何故なのか分かりすぎるほど分かっていた。


 ……嫉妬と安堵。


 せめて彼女は最期まで誰かと一緒に居たのだと思うことで、また彼女には僕以外に苦しみを分かち合う相手がいたのだと知ることになったことで、僕の中に生じた自分勝手な醜い感情。 


 僕にとって彼女の存在は、何だったのだろう。あんなに明るかったあの子が、辛いときほど泣きそうな顔で笑うようになったのは、いつからだったのか。それに気づいた時には既にもう、彼女から目を背け始めていたのだ。それは、僕自身の不甲斐なさから目を背けるのと、同じことだった。


 デスクの上に置き放したままの携帯電話スマホが、メッセージの着信を知らせる。

 ……誰だろう。

 普段なら無視しているのに、何故かソファから腰を上げた。

 見かけないアドレスに、胸が騒ぐ。

 開いたそこには写真が、一枚。



 糸と二人並んで歩く僕が、居た――。









 

 

 

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