幽霊と綿あめ 9


 作戦実行は、この事務所の近所で開催される寺社のお祭りの日だった。

 そして喫茶店で待ち合わせたことを後悔した日でもある。


 何故か?

 


 何気なく扉を開け、いつものスツールに向かう僕の目は、途中で、そこにあった光景に奪われ思考さえも囚われてしまったからだ。

 ……糸?

 すぐには、彼女と分からなかったそれは。


「浴衣を、着てみました」


 足を止めてしまった僕に、俯きかげんに薄らと頬を染めた糸が「お祭りには、浴衣を着て行くものですよね?」と言って微笑みを浮かべて言うまでは。

 ダウンライトの温かみのある光の中、その注染ちゅうせんの仕立ての良さそうな浴衣の、濃紺に白い三種の舞う菊柄に帯にはあえてピーコックグリーンを合わせるレトロモダンな様は、この喫茶店ごと過去にタイムスリップしてしまったような錯覚に陥るほど良く似合っている。

 

 糸の結い纏め上げた髪は、艶かしいその白く細いうなじあらわに、普段は髪で隠れている美しい顔や耳を無防備なまでに晒していた。幾何学的な模様を思い起こさせる耳の、その細く弧を描く輪郭に沿って辿ればそれに続く、柔らかそうな耳朶。上から順に、そっとなぞるように指を這わせたら、あるいは囁くように耳に寄せた唇で、その弧を描く輪郭に触れ……。


「…… シキさん? どうかしたんですか? 先ほどから黙っているばかりで……わたし、どこか変、でしょうか?」


 ……変? まさか。


 ふらと足を踏み出していた。

 糸に向かって、綺麗だと微笑みかけ手を伸ばそうとして、気づいた。

 あ……。

 僕は何をするつもりだったんだろう。

 伸ばしかけたやり場のない手を誤魔化すように、それで半ば顔を隠しながら目をやや背け「セーラー服以外の服を着ているの、初めてだよね? えっと……良く似合ってると思うよ」と僕が言い終えたまさにその時、騒々しく扉を開けて入って来た方を振り返れば、宗田くんの瞬時に息を呑む音が聞こえた。

 その間を置かずに、放たれた言葉。


「うっわ。……高桜さん、すげー綺麗」


 ガチャン、と乱暴に触れ合う食器の音に、その方を見る。マスターがにこやかな笑みで僕を睨みつけるという高度な離れ業を披露していた。

「失礼致しました」

 ……もちろん僕に、ではない。

 店内に向かって、低い声で断りを告げる。


「……じゃあ、行こうか」


 全員揃ったことだし、と二人を促した後マスターをちらと見れば、いつもの目で訴えるだけでは足りないとばかりに、ぱくぱくと口を開け閉めして『しっかりエスコートしなさい』と声を出さずに懸命なそれはまるで、陸に溺れた金魚のようである。いや、ナマズか。

 

「高桜さんが浴衣を着るなら、オレも浴衣にしたのになぁー。並んで立ったら、かなりいい感じに見えると思うよ?」

「ハイハイ、宗田くん。行くよ? 当初の計画を忘れないように。あ、君は足元ほら、気をつけてね」

 宗田くんを軽くいなし、糸の為に扉を手で押さえるとマスターに向かっては、真顔で小さく舌を覗かせ喫茶店から外に出た。


「……ところでさ。その幽霊……さん? って言ったらいいの? 今もいるんでしょ?」

 この時期が、そうさせるのだろうか。

 今では、僕にも見えるようになった宗田くんの右腕にしな垂れ掛かる女性は、白い夏の夜の夢のようで、闇に溶けてしまいそうなほど儚い。

「うん。いるね。僕には若い女性に見えるけれど……やっぱりお婆さん?」

 最後は左隣を歩く糸に向かって問うた。

 からころと響く、糸の下駄の軽やかな音は、夜にあっても澱のように沈む息苦しい湿度が残る路地で、耳に涼しく心地よいものがある。

「いえ、今は美しい姿の女性に見えます」

 糸は答えながら、宗田くんの右腕を確かめるように、見た。

 それを受けて宗田くんは、少し緊張した顔になると、見えない女性のいる自身の右腕に向かって「えーっと、ひとつよろしくお願いします」と言うんだから、案外律儀なものである。博愛主義というのも、あながち嘘ではないのかもしれない。

 ……な、筈もなし。



 あのサンドイッチを僕たちが食べ終えた昼過ぎ、事務所に呼び出された宗田くんが、話を聞き終えた一言目は「まじか」だった。


「え? でもさ、上手くストーカーを退治したとして、幽霊……さん? こっちには、どうやってこの右腕からお帰り頂くわけ?」

「そのところは大丈夫。ちゃんと頼んであるよ。時期としては、好都合だったんだ」

「お盆ですからね」

「……は?」

 僕と糸が顔を見合わせ、頷く様子を「一人除け者かよ」と不貞腐れている宗田くんに気を使うことなく僕たちは、その右腕に憑いている女性について知り得たことを、宗田くんに話し始めた。


「えーっと? 何ソレ。つまるところ、倒れた花束を直すっていうちょっとした気の迷いっつーか。気紛れ? そのせいで幽霊の迷子のお婆さんにお節介を焼かれてるってこと? やべー。しかも、恋とはなんぞや? って、そんな面倒くさいこと正直言って興味ないかも」

「……ん。まあ、そう言うと思ったよ」

 宗田くんの気持ちはどうであれ、残念すぎる要約だが、間違ってはいない。


 少ししょっぱい顔で宗田くんを見ていたら、糸が「それでも幽霊さんは、宗田くんのことを、いたく気に入っていらっしゃるようですよ」と言うのには、満更でもなさそうな顔をしてみせるのは、どういうことだろう。


「でも最近、なんか色々あったからさ、遊ぶのがどーでも良くなってきたのは確か、かも。楽しいけど、どの子もたいして変わんないし。新鮮なのも最初だけなんだよね。で、やることやったら後はおんなじっつーの?」

 

 あ、うん。どうやら平常運転みたいだ。


「このような実態を知っても、人間のストーカーは、宗田くんに幻滅したりしないんでしょうか?」

 何気にまた辛辣な糸ではあるが、ストーカーに世のことわりは通じない。つまり、その通りにはいかないのである。


「それがストーカーの恐ろしいところだよね。自分は違う、特別だって思ってるから、宗田くんのゲスいところを見せたとしても、それは自分ではない他の女の子だから、ってことになってしまうんだ。まだ宗田くんは気づいていないケド運命である自分とは扱いが違うに決まってるデショ、という感じかな? かと言ってまあ、下手なことをしてストーカー本人に、それを拒否として捉えられると、今度は自分を受け入れて貰えない憎悪に変わるから、厄介なんだよね」


 宗田くんのストーカーは、今のところ親密追求型といって『この人は自分理想の人だから親密になりたい』と思っている。他の女の子を排除したりしているけれど、聞いてみたところ宗田くんに対しては、今のところ付き纏い、偶然を装う待ち伏せが、主な求愛的行動として見られるそうだ。

 これが、来るもの拒まずに見える宗田くんに、きっぱりと拒絶されたとして一転した時、拒絶型や復讐型といったものに変わった時が危ない。『私を拒絶することが許せないから、何としても罰する』といった極端な方法を取ることがあるからだ。


「ということは宗田くんに、自分の見る幻想や理想を抱いているんですから、拒絶されたと感じる前に……つまるところストーカー自身に、宗田くんを幻滅させれば良いんですよね? 

 それなら現在、宗田くんは何だかんだと言いつつも、人当たりの良い青年を演じていらっしゃるんですから、その真逆をしたら良いのではないですか?」


「まあね。宗田くんを、王子さまだと勘違いしているんだから、撃退法はそれしかないよ。『幻滅作戦』ってことだね。百年の恋も醒めるようなことをすれば良いんだ」


「……まじか」

 愉悦と快楽と損得勘定で成り立つ頭を、文字通り抱えるプライドの塊のような宗田くんには厳しいと思うが、ここは早く手を打たないと遅くなってからでは危険は増すのだ。


「嫌いなタイプをリサーチして、それを徹底して演じるんだ。自尊心を捨てるんだね。それから羞恥心なんてのも、この際忘れてしまうことだ。宗田くん、夜道で刺されてしまうかもしれないことを考えれば、それが良いと思うよ」


「幽霊さんにも、お手伝い願いましょう。遊び人を辞める約束をしたら、きっと宗田くんの力になってくれますよ」

 

 

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