幽霊と綿あめ 6


 「壊れていますね」


 ブランケットを身体に巻き付けたまま席を立った糸が、片手で拾い上げて見せた大きな音と共に床に落ちたその時計は、文字盤に亀裂が走っているだけで砕け散るのは免れていたが、使えそうにもないのは一目瞭然だった。


「あー、ビックリした」

 自分の身体を抱きしめながら、背後にある時計が掛けられていた壁を見上げていた宗田くんは僕の方へ向き直り「すげータイミング」と引き攣った顔で少し笑う。


「この時計、学校の教室にあるものと良く似ています」

 壊れた文字盤を見ながらそう言った糸に「ああ、ソレここが雀荘だった時のを、そのまま使ってたから。何も考えてなかったけど……そう言われれば確かに。それにしても、この時計は時間を合わせてもすぐに狂ってしまって……気づいてたとは思うけど、実際、何の役にも立っていなかったよね。そのくせ見かけばかりが実用一点張りって感じで」などと答えつつ時計の掛かっていた壁を見上げる。

 周囲とは違ってその壁だけが、まあるく白い色で取り残されているのが、なぜか寂しそうに見えた。


 ……不在の証明。

 そんな言葉が浮かんでは消える。


「それでも、無ければないで気になりますね」

「愛着のある無しに拘らず、それまで当たり前にあったモノが突然、無くなってしまった時に感じる違和感も、慣れてしまえば、それさえも無かったことになってしまうんだから不思議だよね」

 ようは慣れ不慣れの問題に過ぎないと分かっている……とは言え。

 椅子に座ったままの僕に糸が差し出す、壊れた時計を受け取りながら、その顔を見上げて思う。糸の水を湛えたように濡れた瞳に映る僕の姿は、目を閉じれば消えてしまうものだ。また、それは僕も同じ。それまであったものが、不意に無くなったとしても、それは何もなかった頃に戻っただけだ。頭でそうと分かっているのと、心で感じることの違いは何なのだろう。


 その時、こほん、と遠慮がちな咳払いが聞こえた。

 そちらを見ると、やや上目遣いの宗田くんが、僕と糸を見て口を尖らせて言う。

「あの……さ、二人して忘れてない? 依頼人オレの存在」

「……や、忘れてないよ」

「姿は見えていますし、話は途中ですよ? どうやって忘れるんですか?」


 そ、それは随分と身も蓋も無い言い方だね? 

 

 小首を傾げる仕草は可愛らしいその糸の、花びらを思わせる唇から放たれる台詞は、彼女にとっては含むところなどない、真っ正直なものであるものの……。そこに『辛辣』の二文字が見え隠れしているように思えるのは、僕だけだろうか。……違うよね。


 糸が席に戻る姿を目で追いながら、宗田くんは「なら、いいんだけど……なんか……まあ、いっか」と言葉を濁す。

「それで? その後はどうなったの?」

 僕がさりげなく……もないが、先を促すと、宗田くんは顔を顰めながら話し始めた。

「ああ……えっと、ね」結局は押し切られるような形で、送り迎えをすることになったんですよねー。



 ――送り迎えは、とりあえず学校が夏休みに入るまでの三日間で済むことになったのは不幸中の幸いだったな。 


 学校までの道を並んで歩きながら、そっと溜め息を吐いた。


「……それさ、病院行ったわけ?」

 


 あの後、改めて連絡先を交換した彼女の名前は、谷口たにぐち美紗都みさとというのを知った。

 今こうして自分の隣を当たり前のような顔をして歩く美紗都が、右手で庇うようにしているその左腕に巻かれた真っ白な包帯は傍目に見ても痛々しく、あまりにもあざと過ぎるんじゃないかと、思わず苦虫を噛み潰したような顔になるのを抑えきれない。


「病院行くほどじゃ、ないから」


 ちらと包帯に視線を落とした後、美紗都は少しだけ笑ってみせた。

 ほんのりと頬を染める意味が分からない。


 それでなんで、こんなことになるんだよ。

 百歩譲っても、オレの所為せいじゃないような気がする。

 

 昇降口で美紗都と別れて下駄箱へ向かって歩き出した、視線の先。

 朝の挨拶を交わす人波の隙間、離れていても見えるその上履きの中に、ぎっしりと詰まった微かに揺れる花びら。


 ――それは、蠢く数多あまたの白い虫に見えた。



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