幽霊と綿あめ 5




 ――事務所が先ほどより涼しく感じるのは、多分気のせいだろう。

 鈍い僕にだって、もう分かっていた。

 宗田くんが、どこで誰に目をつけられたのか、が。


 話し続けていた宗田くんは、渇いてしまった喉を湿らすために、氷がすべて溶けてしまった温くて甘そうな、アイスコーヒーをストローでひと息に飲み干している。

 そのプラスチックカップを持つ右の腕には絡みつく女性の嫋やかそうな手は、今や手だけではなく、白く細いその肘の辺りまで、くっきりと見えた。

 宗田くんが右手を動かせば自然についてくるその女性の手はまるで、すぐ隣に座って、べったりと腕を組んでいるようだった。

 隣の椅子に座る糸はといえば、何が見えるというのか、誰もいない宗田くんの右側に視線を向けている。

 空になったアイスコーヒーのプラスチックカップを、宗田くんがテーブルに置いたのを見計らって、僕は尋ねた。


「その子の怪我は、どんな様子だったの?」


「押さえる指の隙間から見えたのは、腕を鋭いもので、すっと切ったような真っ直ぐな線のような傷だった。血の量からも、思ったより深いようで、焦って。その子を立ち上がらせようと手を伸ばしたら、いきなり後ろに……」



 がくん、と。

 

 凄い勢いで、コンクリートに背中を打ち付けていた。

 ……転んだ? 

 というより、誰かに引っ張られたように感じたのは、絶対に気のせいなんかじゃない。

 女の子達は三人とも、目の前にいる。

 どんなに待っても、笑い声が聞こえてこないから、誰か知ってるヤツの悪戯じゃないのは明白だった。

 じゃあ誰が引っ張ったんだ?

 そっと横目で確かめた。

 何もない。誰も、いない。

 なぜか、ぞくり、と身体が震える。


「血を見ただけで、腰を抜かしたの? サイテー。みさと、見る目なさすぎ」


 腰を抜かしたように見えたらしい。

 睨み付けてくる友人Aによれば、蹲り腕を庇うこの子の名前は『みさと』らしかった。


 サイテーだって? 勝手に言ってろ。

 

 立ち上がり、身体に着いた細かな汚れを手のひらで払う。

 見れば女の子達は競うように、ハンカチをみさとに手渡し、その腕の傷に充てがおうとしている。

 その行動には、他人を気遣う自分に酔っているのが透けて見えた。告白の場面を見ていたのもそうだが、友達が振られることを、どこかで期待していなかっただろうか? その時は慰めてあげるから頑張れ、なんて心にもないことを言ったりしているのが、容易に想像出来る。こいつらの友情なんてものは友達ごっこにしか見えない。

 それは捻くれたものの見方なのかもしれないが、当たらずといえども遠からず、といったところだろうと思う。なぜなら自分もまた、同じような友達ごっこをしているからだ。

 どいつも、こいつも似たようなもの。

 サイテーなのは、お互いさまだろ。


 血だらけの指が、ハンカチを受け取ったその時に見えた腕についた傷は、真っ直ぐな線を描き、あの連絡先が書かれた紙を渡そうとしたことで切ったにしては場所が不可解で、そのうえ深いような気がした。


 え? まさか、すべて自作自演ワザとじゃないよな……?


 忍ばせた剃刀の刃で自らの腕を斬りつけ、関心を寄せてもらう。……なんてな。頭を振ってその考えを追い払った。そもそもそんな考えが頭をよぎったことに、自分でも驚く。

 一連の出来事に重ねて、目の前の子に疑いを抱くあたり、どうやら莉子の言葉に惑わされているらしい。

 やっぱりサイテーなのは、自分オレか。


「大丈夫そうなら……じゃあ、オレ行くわ」

「コレを見て、何が大丈夫そうなの?」

 また友人Aか。

 顔を顰めそうになって、笑顔を取り繕う。


「だって、オレはサイテーなんでしょ?」


 


 ――うん。そう、なるかな?


 思わず心の声が漏れていたようで、僕は慌てて口を押さえた。

「いや、だって、いくらなんでも怪我してる子をそのままは、ないんじゃないかな」


「やー。四季さんも、やっぱそう思います? あはは。で、サイテーでもそれなりにちゃんとしろと言われて、夏休みになるまでの残り数日を、その子の送り迎えをすることになったんですよね。あーあ。自業自得ってやつかな。あはは」


 乾いた笑い声を上げる宗田くんに同調して、可笑しくもない、それどころか今の話が、どちらかといえば災難のようにも聞こえてしまうのは宗田くんに肩を入れすぎかと思いながら、笑っている僕の隣で、糸があっさりと「でも、自作自演で合ってますよ。放っておいて問題はなかったと、思いますけどね?」と言うのに驚き、ぴたりと僕と宗田くんの笑いが止んだ。


「……嘘」

「まじか」


「今どき、紙に連絡先を書いて渡しますか? 風がなくても手を離せば、紙は下に落ちるでしょう? それも真下には、ぼとりと落下しないのですから飛んだように見えただけです。単なるマジックと同じ原理ですよ。そこで視線を紙に誘導しておいて、すかさず自分の腕を斬りつける。痛いと、大きな声を出して注意を戻した、というわけです。もしかしたら、実際には皮膚も、切れていないかもしれませんね」二人のお友達が、それを知っていたのかどうかは、分かりませんが。


「やべー。高桜さん、それ早く言って欲しかったかも。や、もうマジか……やられた」


「それで、どうなったの?」

 宗田くんに問いながら、目の端に微かに動くものが写り、何だろうと隣の椅子に座る糸を見ると、なんとなく寒そうにそっと腕を摩っている手だった。やっぱり事務所が冷えているのかもしれない。僕の椅子の背に掛けてあった昼寝用のブランケットを、手渡した。

 糸は、ちょっと驚いた顔で僕を見た後、素直に身体にブランケットを巻き付けると、それにそっと顔を埋めたと思ったら、くすぐったそうな笑顔を見せた。え、可愛い……って、いやいや、違う。違くないけど。

 宗田くんの僕に向ける何か言いたげな視線を、気づかないフリでかわした。


 ……腕、といえば。

 宗田くんの右腕にしっかりと絡みつく女性の手に、視線が吸い寄せられる。

 幽霊にストーカーされている、と宗田くんは言っていたが……その子も、怪しい。


 ん? いや、ちょっと待てよ?

 自作自演? だったら、どれかは幽霊のしたことで、全部がぜんぶ、その子の仕業ではないということになる。


 では、やはり幽霊も……?

 

「もう何がなんだか分かんないケド、気味が悪くなんのは、これからで……」

 

 ――ガタンッ。


 突然、壁に掛けてあった時計が落ちた。


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