人魚姫とかき氷 11
赤児を触るかのような柔らかな手つきで、カンヴァスを撫ぜる瑠璃の祖母の、かつては真っ白で細く綺麗だった指は、今はその面影すらない。
それらは長年の歳月によって褐色に変化し、指の節は目立ち太さを増し、甲には深い皺が刻まれた滲みだらけの震える手だ。
「……お祖母ちゃん。平気?」
瑠璃が眉根を寄せ、心配そうに祖母の顔を覗き込む様子を、僕と糸は向かいに座って見ていた。
前回と同じ客室に通されたのは、おそらくこの部屋の押し入れに絵が隠してあったことを説明するためだろう。
……いや、既にしてあるのだろう。
と思うのは、僕たちに見せたいものがあると言われ薄葉紙に包まれたカンヴァスが座卓に乗せられた時も、瑠璃の祖母は顔を少し青褪めただけであったからだ。
まるで過去と対峙する覚悟は、とうに決まっていたように。
「この絵のモデルは、
僕の言葉に微かに頷くも、瑠璃の祖母の視線は、カンヴァスに吸い寄せられたままだ。
太く皺だらけの指が、丹念にその表面を撫ぜる。右端の浜辺から始まり、ゆっくりと人魚のところで止まった。
皺に埋まる唇が『そう、これは私』と形をつくる。
長い時間、瑠璃の祖母はカンヴァスと向き合っていた。それから
『――この絵を描いたのは、私の兄です。
私に記憶がないというのは、嘘。
それが本当ならどんなに良いだろうと、ずっと思ってはおりましたが……。
記憶を無くしたふりをしてまで逃げてきたのは、半分だけ血の繋がった兄からです。
母は父の妾でした。
兄と出会ったのは、母が亡くなったから。子供である私が漠然と父の家に引き取られることになったのは、父の単なる出来心からでした。
よく考えたうえでの話ではありません。
父からしてみれば、それは親心であり、母を亡くした子への同情からくるものであったのは間違いありませんが……。
ですので、それきり。
相談もなしに連れ帰った妾の子が、その後どうなるのかは、考えてもいませんでした。
突然現れた娘を、歓迎するはずもないことさえ、想像出来ないのですから後は押して知るべしでしょう。
何しろ妾がいたからといっても、少しばかり裕福なだけの土地ばかり広い、家屋は普通の家です。お屋敷に住んでいるわけでもないのですから、毎日顔を合わさずに暮らしてゆけるはずもなく、かといってどこへ行ったら良いのかもわからず、私は自然と、離れにつくられた兄のアトリエへ顔を出すようになりました。
兄は夢の世界に生きている人でした。
アトリエは、兄の夢の中そのものです。
静物画に使われた髑髏や花瓶が、ごちゃごちゃと散らかり絵の具で汚れた床に腐りかけの果物が転がる、テレピン油の咽せ返るような匂いの、その夢の中。
そこで七つ歳上の兄は、洋画家になりたいと日々夢を追いかけてカンヴァスに向かっておりました。
アトリエに私が顔を出し、やがては長居するようになったことで、それまでクロッキーの対象だった私が、デッサンのモデルとしてポーズを取ることになるのに、そんなに時間はかかりませんでした。
私は言われた通りの体勢で座っていれば良いのですから、そんなことは苦だと思わなかったのです。
ただ、兄が私を見つめる眼差しにおかしな熱が帯び始めるまでは――。
半分、血が繋がっているというのは不思議なものです。
父と母がお互いに、愛した人の半分ずつの血を混ぜているのですから、惹かれないわけがありません。そのような目で見られるうちに私も兄のことを、それこそピタリと合う半身のように思えてしまったのがいけないのでしょうね。
もしかしたら、あのことはテレピン油の匂いに酔っただけなのかもしれませんが、起こるべくして起きた過ちでした。
そのきっかけは、秘めていた想いを知られてしまったことから。
気づいたのは兄の母かと思うでしょうけれど、違います。
……父、でした。
それも兄が私をモデル描いたデッサンを
私と兄が惹かれあっていることを。
兄の母が知る前に、なんとか引き離そうとする父の思いも虚しく、反対されればされるほど、私と兄は熱に浮かされたようになり、やがては絵の具だらけの床で、ついに過ちを犯すことになってしまいました。
気づいたときには、私の白い身体のあちこちに色とりどりの油絵の具が、付いておりました。
それを見たとき、決して消えることのない
けれども兄は、違ったのです。
ますます私に、のめり込むようになりました。アトリエに篭りきり、私をミューズだと言って憚ることない兄の絵は、いつしか私しか描かなくなりました。
罪の意識はあっても、どうしても惹かれ合うのをやめられないのは、私も同じです。
優しさに飢えていたのだと、今なら分かりますが、熱に浮かされていたあの時には何も分かっていませんでした。
求められることが、嬉しかったのです。
愛をただ、勘違いしていました。
そんな私たちの様子に、兄の母が気づかないわけがありません。
あの日、アトリエの床で、絵の具に汚れた私の身体をカンヴァスの代わりにしていた兄は、部屋に母が入って来たことにも気づいていませんでした。
兄の母が、落ちていたペインティングナイフを拾い上げ、私に向かって振り翳した後のことを覚えてはいません。
目を開けたら、そこは砂浜で一人の青年の驚いた顔がありました。
声が出なくなったと知ったのは、身体が
それからも声はいくら待っても、戻っては来ませんでした。
――この人魚姫は、私ではなく兄です。
顔や身体こそは、私ですが。
この絵で兄が描いているのは、移り気な
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