人魚姫とかき氷 10



 「この絵は、瑠璃さんのお祖母さんにお返しするべきです」


 やけにきっぱりと言い切る糸が、事務所に来たのは、カンヴァスに描かれた絵を持ち帰った次の日だった。


「そう……それはまた、どうして?」

 部屋の隅に置かれているデスクに座って、珍しく仕事らしいことをしていた僕の近くまで来た糸は、立ち上げてあるパソコンの画面をちらと横目で見る。


「調べものですか?」

「ああ、うん。そんなところかな」


 やましいところなど、少しもないのに何となく画面を隠したくなるのは、どうしたものだろう。

 糸に応接セットの椅子に座るように促すと、パソコンを閉じてソファに向かった。

 椅子に浅く腰掛け、テーブルの上で、薄葉紙に包まれたカンヴァスを取り出している糸の俯くと長い髪から覗く白い首筋に、目を奪われる。

 

「この絵、最初に見たとき、わたしは恋文ラブレターだと言いましたよね?」

「うん。そうだったね」

 僕は、そう言いながら糸の向かいにあるソファに腰を下ろす。


「わたしが間違っていました。これは恋文ラブレターであり、お別れの手紙でもあり……もしかしたら、作者の遺書かもしれません」

 

「どうして、そう思うの?」


 なぜなら、と糸はカンヴァスから視線を外し、悲しそうな顔で僕を見上げた。

「なぜなら、夢を見たんです。このことは間違いありません。この絵が、わたしに夢を見させたんです。彼女……瑠璃さんのお祖母さんとこれを描いた画家の日々を。しかし、見たそれは夢であっても、わたしの夢では夢でした。それは、なぜかと言いますと……」


 再び、テーブルの上のカンヴァスに視線を戻した糸は「絵の雰囲気が以前と少し異なっているのが、分かりますか?」と、僕に尋ねる。

 カンヴァスを覗き込む僕は、その違いを見つけようと暫くの間見つめ続けるが、よく分からない。

 糸が僕に携帯スマホを差し出して来た。


「昨日、撮った画像です。見比べてみてください」

「……あれ?」


 手元にある昨日の夕方、窓辺で写した画像にある絵と、昼前の明るい日差しの下、テーブルに置かれたカンヴァスの絵では、色彩に明らかな違いがあった。


「どういった方法を使っているのか分かりませんが、この絵を描いた方は光が映し出すものの色に、とても繊細な感覚をお持ちだったとしか言いようがありません。色覚マジックとでも言うように、光の加減で絵が違うもののように見えるんです。……さらに言うなら、瑠璃さんのお祖父さんに対する意趣返しも、あるのでしょうね」


 明るさの違うところで見る絵の違い。

 瑠璃の祖父が、ひとりでこっそりとこの絵を見るであろうこと、そしてそれは皆の寝静まった時間、乏しい灯りの下であることをみこして描かれたもの。


 糸は僕の手に携帯を持たせたまま、画面をスクロールしてみせた。

 暗い部屋、小さな橙色の灯りがカンヴァスを照らす画像。


「これが、おそらく瑠璃さんのお祖父さんが見た絵です。今、このテーブルに置かれているものと全く違う感じを受けませんか?」


 なるほど白い砂浜に座る人魚は、艶かしいというよりも、淫靡に見える。

 思わず作者との関係を邪推してしまうように描かれたそれは、昼間に見る絵とはかけ離れたものだった。


「これを見たら、確かにショックかもしれないね。まず初めに疑いがあるんだ。その疑いの眼差しでもって見るんだから、堪らない」


 愛する人の悩ましいほど淫靡な姿、それを写しとるカンヴァスの向こうの視線に、嫉妬を向けただろう。

 たとえそれが過去のものだとしても、そこに流れた濃密な時間を思えば、胸を掻き毟りたくなった筈だ。


「それでも恋文ラブレターなんだろ?」

「だからこそ恋文ラブレターなんですよ。愛する人が居なくなり、その人が幸せだと知って描いた絵。でも、それを本人彼女は、見せて貰えなかったら? 見せて貰えるなら明るい日の下に見るでしょう。その後、彼女も見せた筈です。やましい気持ちで見なければ、実に美しい絵ですからね。しかし見せて貰えないのなら、こっそりと他の人が見た後に処分されてしまうかもしれない。こっそりと見るとしたら、誰か? それは愛する人、その相手」


「そうかなるほど……。それで彼女の幸せが駄目になるくらいなら、そこまでの男だったということなんだね。だけど、別れの手紙? それはどうして? 恋文ラブレターで良いんじゃないの? ましてや遺書だなんて……」


 僕の言葉を受けて、糸が示した箇所はカンヴァスの右端上部に描かれた山々だ。


「この雪の部分。ここから始まって、教会のような建物の屋根、途切れとぎれにアルファベットが逆さまに隠れています。繋げると『really sorry』という文字が現れるんです」


 糸の細っそりした指が、判じ難いアルファベットを一つずつ指し示してゆく。


「この絵は、おそらく判じ絵パズルのようになっているのだと思うんです。だからこそ、瑠璃さんのお祖母さんにしか分からないことが描かれている可能性があります」


「……でも、このフレーズが別れのものではなくて、探してみたらこの絵に、やり直したいとか、戻って来て欲しいとか描かれていたらどうするの?」


「それはあり得ません。でしたら、この『人魚姫』を題材にするとは思わないからです。……このお話の結末は、誰でも知っていますよね? 王子にとって人魚姫は、どんな存在だったでしょうか。はっきりと言って、単に可愛らしくて後腐れのない遊び相手に過ぎません。いえ、もっとタチが悪いかもしれないです。甘い言葉を囁いてはいるものの、飽きたら手放すであろう玩具でしかないことは、美しい王女を見たときの変わり身の早さで分かります。人魚姫は、王子が飽きる前に姿を消したので、その後のお話は書かれてはいませんが、おそらくは……」


 You deserve much better than me.


 この絵を描いた画家は、自らを王子に例えたのだろうか。だからこそ、王子のいない浜辺に人魚の姿を描くのか。

 

「……つまりわたしは、この絵を見て、自分では意識しないうちに、そこに描かれた何かを汲み取り、それで夢を見たのだと思います」


 絵による介入。

 糸の見た夢は、絵によって見せられたものだったというわけだ。


「じゃあ、絵があった部屋に泊まった人が見たというのは……?」


 ああ、それでしたら、と糸は少し笑う。

「瑠璃さんが誘導したんじゃないかな、と思っています。もしかしたら、お客さんとの話の中で、人魚というキーワードを出していたのかもしれませんよね」


 僕は底抜けに明るい瑠璃を思い出し、それもまた、ありそうな話だと糸に頷き返す。


「……これ、瑠璃さんのお祖母さんに見せて大丈夫なんだろうか?」

「きっと大丈夫だと思いますよ。昔のことは思い出せないんじゃなくて、もしかしたら思い出したくないだけで、覚えている可能性が大だと思います」


 何にせよ、まずは瑠璃に承諾を得なくてはと僕は携帯を取り出し、電話をかけた。

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