人魚姫とかき氷 9
僕は事務所に一人残って、ぼんやりと暮れゆく窓の外を見下ろしていた。
糸があの台詞の後、部屋を出たときは日没まではまだ時間があったこともあり、僕は家まで送ることをせずに扉の前で、じゃあと手を上げただけだったが、正直に言えば、それは時間のせいばかりではない。
夢を見たかどうか聞かれたときに咄嗟に答えることを拒否した自分が、酷く後ろめたかったせいである。
なぜなら僕の見た夢を糸に説明するには、あのことを話さなくてはならないと分かっていたからだ。
窓を開けると日中の照りつける暑さとは違い、身体に纏わりつくねっとりとしたそれに変わった今は、僕を蝕む後悔とよく似ている。
過去に戻り、やり直すことが出来たとしても僕は、気づいた時には同じところに立って再び呆然としている自分を思い浮かべることが容易に出来た。
自分で言うのもおかしなものだが、つくづく損な性分である。
……その時、妙な物音が聞こえた。
壁に何かを打ちつけるような、鈍い音。
不規則な間隔をおいて連続するその音が聞こえてくる場所を探して、首を巡らせる。
響いてくるのは廊下の奥、エレベーターのある方向。
そして、耳を澄ますと分かるその鈍い音の合間に、微かに聞こえるものがあった。再生速度を間違えた音声に似ているそれは、言語はまるで不明瞭なくせに、その低い声が人のもので、さらには何かを喋っていると本能的に分かってしまうからこそ、その地を這うような、のたりべたり、とした声が怖気を震うのである。
『ひとりで居るとこの事務所、音が気になりませんか?』
糸の声が蘇る。
途端、怨みがましい低い男の声が、すぐ背後に聞こえたような気がした。
見なくても分かる。
エレベーターの中に立つ、あの男に違いなかった。
ぞくりと背筋が粟立つなか、それでも振り返りたい気持ちになるのは、どういうわけだろう。その結果に起こることは大抵予想の出来るものだというのに。
振り返らざるを得ないと思うほど強く感じるその欲求は、恐怖に支配されたくない足掻きからくるものなのか、単なる好奇心からくるのかは分からないが、そこに抗い難い魅力があるのは事実だ。
ああ、振り返ってしまいたい。
いつも壁に向かって俯いている男は、どんな顔をしているのだろう。
しかしこんな時は、何も気づかなかった振りでやり過ごすのが良いのだと知っている。
もはや人ならざる者、を相手にすると碌なことにはならないと是非に及ばす知っているからだ。
首筋に強い視線を感じる。
この部屋には、確かに、僕しかいない筈なのに。
振り返ってしまうことに抗えそうもない僕は、そそくさと
背中合わせの恐怖に、無視を決め込むことの出来る糸ほどの強さはないからである。
「いらっしゃいませ……あれ? 一人かい? 糸ちゃんは?」
扉を開け、ダウンライトが柔らかく灯る店内に足を踏み入れた僕の背後に、続く糸の姿が無いことを目敏く見つけたマスターのがっかりした顔は、構ってもらえる期待が一転、ぬか喜びで終わってしまったミニチュアシュナウザーに良く似ていた。
「今日はもう、帰りましたよ」
「まさか……とうとう何かしたんじゃないだろうね?」
何をですか、と言いながらいつものカウンター席に座る僕に、マスターは「いや、何もしないのも、またそれはそれでアレなんだけどね」と意味不明なことを呟いている。
「何かしたら責められ、何もしなくても言われる僕は、どうすれば良いんですかね」
「……それは、ホラあれだよ」当人がどう思うかで、この場合、色々と違ってくるから何とも……。
語尾を誤魔化しながらマスターは僕のコーヒーを淹れる準備を始めた。
僕は両手で頬杖をつきながら、マスターの寸分の狂いもない手つきに見惚れる。こうしていると、まだ幼かったあの頃のように、隣に座る祖父の姿が見えるようだった。
「そういえば、もうすぐ命日だね」
僕の心を読んだマスターが、手元に視線を落としたまま言う。
「いつかはシキくんを一人残すと分かってはいただろうが、それにしても少し早かったよ。まあ、どんなに長生きしても、やはり、お互いに心残りは拭えないのだろうがね」
「祖父は、マスターがいるから安心していると思いますよ」
ふっと口元に微笑を浮かべたマスターの心中は、何を思うのだろう。
「……もしかしてシキくんは、あのことをまだ悔やんでいるのかい? だから糸ちゃんとも、なるべく距離を縮めないでおこうとするのだろう?」
「まさか御冗談を。相手は十も歳下ですよ? 僕は犯罪者には、なりたくありませんからね」
「また、君はそうやって極端なことを言うのかい? きちんとした恋愛には、合法も不合法もありはしないんじゃないのかね?」
「さあ、どうでしょうね」
「彼女のことさえなければ、君だって違っていただろうと思うよ」
悲しげな顔で首を横に振る。
祖父の話から、あのことに繋げるマスターに、僕は内心で舌を巻いた。
本命は、こちらだったに違いない。
いつまでも煮え切らない僕の態度に、マスターなりの心遣いを感じて胸が痛む。
こぽこぽと音を立てて沸騰するビーカーに、目を奪われた振りをする僕にマスターは「もういいんじゃないかな。彼女のことは君の所為ではないよ」と続ける。
僕が大学生の時に、付き合っていた彼女が死んだ。
……それも心中で。
相手は、僕の親友。
『残念だよ。おまえは、少しも彼女のことを分かっていない』
携帯の向こうで、そう言って嘲笑うアイツは僕にその言葉を残し、彼女と手に手を取って崖から飛び降りたのだ。
だが見つかった身体は、彼女のものだけだった。アイツは未だに見つかっていない。
「僕の大切に思う人は、皆、いなくなってしまうんですよ」
両親も祖父も、彼女も、果ては親友だと思っていたアイツまで。
指の間を擦り抜けてゆく砂のように。
残ったのは、ほんの僅かな砂つぶ。
それらを失わないようにするには、新たに掌に何かを載せるべきではないのだ。
「それに彼女が亡くなったのは、僕が彼女のことを分かってあげられなかった所為なんですから」
「違うよ。シキくん。それは違う」
マスターがそう言いながら僕に差し出したコーヒーに口をつける。
それは普段とは違う、味がした。
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