人魚姫とかき氷 8
「視線が……動く?」
窓辺に立て掛けたカンヴァスを、糸と二人少し離れて眺めた。
立つ場所を少し変えてみてもなるほど、それでも人魚の視線が追ってくるように見える。
やや後ろでシャッター音が聞こえた。
振り返ると、糸が
「……騙し絵」
人魚が驚いているように見えたのは、胸に当てた手の指が開いているからだと思っていたが、どうやら瞳の描き方にも理由があったらしい。
この油彩は、スカンブル技法というものだろうか。幾重にも薄く色を重ねて表現しているその中で人魚の瞳だけが周囲に比べ、良く見なければ気づかないくらい、微かに湾曲するように油絵の具を重ねた白い眼球になっている。
そしてまた、顔の角度からするとやや不自然なほど、その眼球の中心に描かれた虹彩が、見る人に錯覚を起こさせている元凶のようだった。
「じゃあ、やっぱり瑠璃さんのお祖父さんは、勘違いをしていたのかもしれないね」
「ということは、人魚は初めからやや左、海の方を向いていたと、シキさんは考えるということですね?」
この絵が送られてきた後、瑠璃の祖父がたった一人で夜中にこっそりと、少ない灯りの下、薄葉紙を開きカンヴァスと対峙しているその様が、目に浮かんだ。
見たくなくても、見ずにはいられない。
自分と出会う前の彼女は、カンヴァスの向こうに居る人物を愛していたのだろうか。
この丁寧に塗り重ねられた筆遣いに、彼女への苦しいまでの愛を、感じられやしないだろうか。
彼女がこの絵を見たら、忘れていた筈の何もかもを思い出し、自分の元から去ってしまうのではないだろうか。
それを確かめたい気持ちと相反する思い。
「そういえば、絵のある部屋で寝ると人魚の夢をみると瑠璃さんは言っていましたが、昨夜は何か夢を見ましたか?」
「……どうかな」
僕は糸の視線から逃れるように、窓辺に置かれたカンヴァスを手に取る。
彼女に会えるなら、たとえ悪夢でも良いと思っていた。今になってあの夢をみたのは、この絵のせいなのだろうか?
まさか、そんな筈は、ない。
夢をみることになった理由は……。
「わたし、この絵を持って帰っても構いませんか? 実際に夢を見るかどうか、今夜、試してみたいです」
いつの間にかまた隣に立っていた糸が、そう言いながら僕からカンヴァスを受け取る。
「……君は、どんな夢を見るんだろうね」
ややもして僕が呟いた言葉は、テーブルの上で丁寧にカンヴァスに薄葉紙を被せていた糸の手を、止めた。
「やっぱりシキさんも夢を見たんですね?」
……。
聞こえないふりをした僕を見て、糸は止めていた手を再び動かしながら言う。
「夢は、記憶の集まりだと言いますよね。ランダムに記憶を切り貼りしては繋げ、ひとつのストーリーとなった夢。それは、自ら見ているのでしょうか? それとも、脳に見せられているんでしょうか? いつも不思議でならないんです。果たして脳は、自分の思うように動かせているのでしょうか。実際のところすべてにおいて、脳や、体内は、自分の完全なコントロール下には、ありませんよね。ならばなぜ、自分が脳を動かしていると断言できるのでしょうか。脳の方が自分を操ることは、ままあるのかも……いえ、あるといわれても納得してしまう自分がいるんです。それを考えると、もしかしたら記憶から見る夢も、脳に見せられている夢なのかもしれませんし、もしかしたらそれとは違う何かの介入によって見る夢があっても、不思議ではないかもしれません」
糸の声は囁くようで、耳を澄ましていると、かさかさと薄葉紙の擦れる音がやたらと大きく聞こえた。
……脳が勝手に見せる、夢。
それとは違う、何かに見せられる夢。
では僕の見たあの夢は、そのどちらなのだろう。
夜の海、その暗闇の中で仄かに浮かび上がって見えた彼女の白い裸体。
いつか見た日の、記憶に残る身体と変わらない美しさで夢の中でも変わらず僕を悩ませる彼女が、現実において、あのように僕を嘲るように笑ったことは一度としてない。
『残念だよ。おまえは、少しも彼女のことを分かってない』
そう言って僕を嘲笑ったのは、彼女ではなくアイツの方だった。
あの夢は、脳によって見せられた、僕の記憶を元に作られたストーリーなのか。あるいは何かの介入……この場合は人魚の絵による介入があった夢だというのだろうか。
つまりそうであれば絵に宿る『何か』が、近くにいる人に夢を見せるために、夜な夜な外へ出て来るというのか。
「シキさんは、人魚は動いていないだろうと、瑠璃さんのお祖父さんは見間違えたのだろうと言っていましたよね?」
……本当にそうでしょうか。
糸はキャンバスバックに絵を入れ、すっと立ち上がった。
「お借りします。結果は明日また、ここで」
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