人魚姫とかき氷 7




 ……ごうごうと、音が聞こえる。


 轟くような低いその音は、海鳴り。

 途切れることのないそれは、胸を深く抉るまるで唸声にも似た、音。

 やがてその音は、自身の不安までも呼び込み、耳の奥に腹の底に闇の中へ、澱のように溜まる。


 だが、浜辺まで来ると海鳴りは、寄せては返す波の音に混じり合い、そちらに気を取られているうちに分からなくなってしまう。


 ……ほら、もう聞こえない。


 夜の暗闇のなか、それでも目の前の不思議に明るい海の様はどうしたことだろう。浜辺に寄せる泡が、仄かに白く光って見える。

 しばらく海を眺めていると、小さな岩場の陰から、波が浮かび上がる拍子に女の白い裸体が、ちらと見えた。

 見ていると、やがて岩の上に白い腕が這うように伸ばされ、寄せる波に合わせて身体を持ち上げようとしている。


 あれでは、身体が傷だらけになりやしないだろうかという心配をよそに、二度三度と小さな波の後、大きな引きに続く大層な波が岩場に寄せた、その瞬間。

 岩に引き上げられたは、女の白い裸体。 

 その身体は、腰から下に向かって鱗に覆われ、月が濡れた女の裸体を照らし、濡れた鱗をきらめかせている。

 女は夜に向かって、顔を上げた。

 夜空を仰ぐその滑らかな喉、形のよい鎖骨、柔らかな乳房は闇の中で白く浮き上がるようだ。


 その美しい眺めに、しばし見惚れる。


 それから空気を思い切り吸い込むように、頭を仰け反らせ露な乳房を突き出したかと思うと、尾びれのある下半身を大きくしならせ、女はこちらに顔と身体を向けてみせた。

 

 射るような、挑むようなその眼差しは、目を逸らすことを許さない。


 ……まさか。


 身体が、どくんと跳ねた。

 胸が締めつけられる。

 打ち寄せる波が、顔を濡らす。

 いや、違う。

 自分の頬を濡らしているのは、波飛沫ではなく涙だ。

 それを見て女は笑う。

 口を開け首を仰け反らせ嘲るように笑う。

 声は波の音で掻き消され、聞こえない。

 顔を前に戻す。

 唇に浮かぶ笑みは、嘲り。

 人魚は、再び尾びれを大きくしならせると、身体を翻した。


 ……お願いだ、待ってくれ。


 声の限り叫ぶが、それもまた、やはり届かずに、波が女を消し去るのを成す術なく見ていた。追いかけなくては、と思うも脚が動かない。

 足元を見ると小さな蟹が、びっしりと両脚の、その膝の上まで登ってきていた――。

 



 ……ああ。


 僕は、がばりと跳ね起きる。

 噴き出た汗が、びっしょりと全身を濡らしていた。

 あの、人魚は……。

 あの人魚の顔は……彼女あの子だった。


 僕のせいで死んでしまった、彼女だ。

 そうだ。

 彼女は、僕が殺したようなものだ。


 せめて、夢の中でも良いから会いたいと思っていた、その筈だった。

 会えさえすれば、それは悪夢でも良いと思っていた。

 何故か?

 そんなことも、分かっていなかった。

 両手に顔を埋める。

 分かったのは、僕の愚かさだけだ。

 決して赦されないと分かってるからこそ、せめて夢の中で、彼女に赦しを乞うために会いたいと思っていたのだと。

 ……なんて、浅ましいのだろう。


 彼女が僕を見る視線。

 あの嘲りが浮かぶ唇。

 

 彼女は、決して僕を赦さないだろう。


 今になって、夢に彼女が現れた理由を僕は知っている。



 ――僕の心が、動いたからだ。






 

 

 

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