人魚姫とかき氷 12


 まさか。

 愛する人の顔を描いた人魚の方が、兄?


 僕は、思わず糸を振り返る。

 しかし、糸は動じた様子もなく、瑠璃の祖母を静かな眼差しで見ていた。


 そんな僕と糸を交互に見た瑠璃の祖母は、再び書き始める。


『――この絵。

 この題材を選んだのには、私たちにとって、もちろん意味があります。

 デッサンの合間に、あれこれ色んな話しをしました。中でも童話について、よく語り合ったものです。

 というのも父は全く同じ童話全集を、幼い頃の兄と私に、それぞれ与えていたことが分かったからでした。

 同じものを読んで、育った。

 それは不思議な感慨があったのです。

 その童話の中でも兄は、人魚姫の話が好きではありませんでした。

 もし、兄が人魚姫の立場なら間違いなく王子を殺した、と言っていたのを思い出します。

 ……人魚姫は、お人好し過ぎる。

 そう言っておりましたから。


 この絵には、王子はいません。

 ですからやはり私には、人魚姫が殺してしまった後のお話のように思えるのです』


 ……手に入らないのなら、いっそ壊してしまって何が悪い。


 僕の親友だったアイツも、同じようなことを言っていたのを思い出した。


『兄は……人魚姫は、殺してしまった王子のいない浜辺で何を思うのでしょう。逃げた私を、責めているのでしょうか』


 この絵は、王子を殺した後なのだろうか?

 

「……違います。お兄さんが、人魚姫のお話を好きではなかったのは、自分なら王子を殺すと貴女あなたにそう言ったのは、貴女のお母さんを人魚姫にたとえたからでしょう。お兄さんは、男の人ゆえの狡さを知っていた。

 それなのに、孤独な貴女には拒めないと知っていたのに、愛してしまった。

 自分もまた、狡い男だったと……。

 貴女に赦しを乞うているんです。

 人魚姫が王子を選ばなかった世界を描くことで、貴女に新しい生を与えたかったのかもしれません。

 つまりこれは、貴女宛の贖罪という名の恋文ラブレターです。心変わりを責めているのでは、ありません。貴女に幸せになって欲しかったのです」

 糸が静かに言った。


「とても、美しい絵ですよね」




 高速バスの方が、電車より断然便利だと熱弁を奮う瑠璃の運転で、半ば強制的に、この間のバス停まで送ってきて貰った僕と糸は、別れを惜しんでくれる瑠璃と、バスの乗車時刻まで立ち話をする。

 それは他愛のない話だ。

 海の家のこと、民宿客のこと。

 話しながら僕は、考える。


 ――糸の言葉の後、瑠璃の祖母がカンヴァスを抱きしめて泣く姿に、寄り添っている男性の姿が見えたこと。僕も、あるいは糸も、口にすることはなかった。


 あれは、おそらく……。


 瑠璃は遠慮のない視線を僕と糸に向ける。

「えーっ、そうなの? 兄妹じゃないんだ。あ、そう。ふーん」

 ようやく誤解を解くことが出来たと、何故か安堵する僕に向かって、瑠璃は大袈裟な様子で、やれやれ、と首を振る。


「確かに言われて見れば、似てないのよね。なんで兄妹なんて、思っちゃったのかしら? ……っと、何でかお祖母ちゃんの話、また思い出しちゃった。まあ、お祖父ちゃんもあんなこと言えるのは、私しかいなかったから思わず言っちゃっただけなのよね。私から見ていても、お祖母ちゃんはお祖父ちゃんのことを愛していたもの。だけど不安って、口に出したくなるじゃない? どうしようもないと分かっていてもね。覚えているけど帰りたくない、帰らない理由。きっと、何となく分かっていたんだとは、思うわよ。感情って不確かよね? 真っ直ぐに自分に向けられているかどうか不安になることも、そりゃあるでしょうし。私なんてそんなのばっかりだしさー。ま、私くらい良いオンナになると、なかなかピッタリくる相手を見つけるのは難しいとは分かっているから、仕方ないわね」

 真っ青な空と入道雲を背に腰に両手を当てて、にかっと大きな口を開けて笑う瑠璃は、夏が良く似合う。


「良い人ならすぐ側にいるのにって、瑠璃さんのお祖父さんが、言ってましたよ」

「ええ〜ッ?! 見える人なの? 何ソレ、詳しく!」


 瑠璃の耳元に顔を近づけ、そこに優しく手を添え何かを伝えている糸を見ながら、今度は僕がやれやれと首を横に振った。

 


 やがて、バスの乗車開始の合図を受け、僕と糸は瑠璃に別れを告げる。

 

 前と同じように、瑠璃が先に自家用車に乗り込み、満面の笑みで僕たちに手を振ると、まもなく走り出した。

 まるで僕たちとは、また直ぐにでも会えるかのような、瑠璃のそのさっぱりとした仕草を好ましい思いで見送るのだった。


「……色々な人がいるんですね」

 バスに乗り込もうとしている人達を、それとなく見ながら糸が言った。


「わたしは、これまで人にどう見られているのか、あまり興味がなかったんです。

 というよりも、んです。言い方を変えれば、自分の感情は自分だけのもので、他人と共有するものだとは考えていませんでした。

 他の人より見えなくて良いものが見え、聞こえなくてよいものが聞こえたからかも、しれませんが。

 だから自分の存在が、周りの人たちの感情の波を動かすのを不思議な思いで見ていました。何もしていないわたしに向けられる、愛想笑いも悪意ある言葉も、それに伴うねたそねひがみも一緒くたに、それらをぶつけてくる理由を深く考えることもせず醒めた目で、周りの人を見てました。


 わたしがだと気づいていなかったんです。


 わたしには、一人も独りも一緒だった。

 他人を受け入れることも、誰かに自分を知って貰おうともしない。

 ……今でこそ分かるんですが、他人ひとに受け入れて貰うために皆、自分を少なからず偽って生きていますよね? 

 ありのままの自分を、受け入れて貰いたいなんて、単なる甘えなんです。

 それを知っているからこそ、他人ほかの人たちは、周りの人に合わせて、独りにはならないように自分を少しずつ調整している。誰もが調整しながら、自分というものを知ってもらおうと努力しています。

 独りは嫌だから。

 ……一人でいることと、独りは、違う。

 そんな当たり前のことにさえ気づいていなかったわたしが、目障りなのは当たり前です。

 つまり少し前までは、そんなことさえ何も分かっていなかったんです。まあ、今だって、分かったつもりになっているだけなのかもしれません。

 それが分かったからといって、何かが変わったのかと聞かれても、分かったなら自分を変えられるだろうと言われても、わたしには出来そうにありません。

 元から人と関わるのが苦手っていうのもあるんでしょうけど……」


 だけど……と糸は、そこで僕を真っ直ぐに見て言った。

 長い髪は陽に透け、射るように僕を見つめる強い瞳は、きらめいている。

 今は遠い潮風の匂いを、ふと感じた。

 続く糸の声は、澄んだ空のようだった。


「だけど、わたしは、もっとシキさんにと思っています」それって、どうしてなんでしょうね?

 そう言った次の瞬間、ふわりと恥ずかしそうに微笑んだ糸に僕は思わず息をのみ、ただ見つめ返すだけしか出来ないのだった。



 答えるべき言葉を探しあぐねて――。


 



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