鶯と枇杷 8


 そのあとのノートの余白には、海都の書いた絵や断片的な文字が書いてあった。

 駅舎の絵。

 田んぼ。川。山。大きな手。

 これは……西?

 しかしそれは、書いている本人も自信がないと見え、書いては消してを繰り返した後や、鉛筆でぐるぐると塗り潰した後が見られる。

 海都の目に『ようちゃん』の目に、映っていた世界は、どんな様子だったのだろう。

 自分の幼い頃、かつて見ていた景色を思い出そうと目を瞑る。

 そこら中に転がる宝石を拾い集め、青空で泳ぐことだって出来たあの頃。

 拾った鍵を手に、地面の中に続く扉を見つけようと膝をついて探し回ったあの日。

 水溜りに映る逆さまの世界に、両腕をそっと差し入れたら裏側に出られると思っていた雨上がり。

 背が伸びると共に、いつの間にか大人になってしまった僕は、あの頃に見ていた景色を再び同じように見ることは叶わない。そして何処へでも行けるようになって、初めて気づくのだ。

 子供の頃に見ていた広いひろい世界は、本当はダイダラボッチの手の平ほどの中を駆け回っていただけなんだ、と。


 ――喫茶店での会話を思い出した。



「海都くんは、さ。前世のお母さんを見つけてどうしたいの?」

 ホットツナサンドの中の溶けた熱いチーズと、格闘する海都がそれを飲み込んで言った一言は「幸せならいいなって」だった。


「オレさ、先にいなくなっちゃっただろ? だから、幸せになってて欲しいなって。それが見れたらいいかな。……あ、あとオレのこと見て分かるかな? 分かんないか」

 またひと口、大きく齧る。


「それだけ? それだけで良いの?」他に聞きたいこととかさ。僕の言葉に首を傾げる。

「何を聞くんだよ?」

 口の中のものを飲み込む間、しばらく考えていたが海都は続けて「そんな今さら……」と言葉を濁した。


 そうなのだ。

 『ようちゃん』は何を聞いたら良いのか、本当は分かっている――。




「……シキさん?」


 糸に呼びかけられて、はっと顔を上げる。

 だいぶぼんやりと考え込んでいたようだ。

 すっかり帰り支度の整った糸が、鞄を胸に抱くようにして心配そうな顔を僕に向けていた。「どうしました?」

 僕はノートをテーブルの上に置くと、なんでもないよ、と少し笑ってみせる。


「うっかりしてた。帰る時間か、送るよ」

 ソファから立ち上がる僕に、糸は小さく首を横に振ると僕を見る心配そうな顔はそのまま「まだ早いから、ひとりでも大丈夫ですよ」と言った。

 聞こえない振りをした僕は、事務所の扉まで歩いて行くとそのガラス扉を押さえ、糸がそこを通るのを待つ。


「中間 試験テストは、いつ?」

「明後日から四日間です」

「ふうん……」

 

 突然立ち止まった糸は、がばり、と僕の腕の下で顔を上げた。

 ……ち、近いよ。

 糸の長い睫毛が肌理の整った白い肌に影をつくる様を間近で見て、息も触れそうな位置にある身体からは香水の奥の温かな肌の甘い匂いまで感じた僕は、慌てて糸から離れる為に扉から手を離した。

 あ、しまった、逃げ場なんてない。

 途端に後頭部に硝子扉が当たって、酷い音を立てる。

 

「まさか、約束を忘れてませんよね?」

「えっ? え? 約束?」

「今度は朝一番の電車で出掛けるって、約束したじゃないですか」

「う、うん。シタ。したした。したね?」

 だけどさ君だってテスト勉強あるしそれでなくても下調べとかしたいし何回も行くのは結構大変だから次に行く時は海都くんも三人一緒で……。

 一息に喋るのは、意外と難しい。

 同時に扉を押さえながら、そろりそろりと糸から身体をずらすように離れる。

 しばらく黙って僕を見ていた糸だったが「じゃあ、テストが終わった頃に、海都くんも一緒にお出掛けしましょう」と言う。


 それって、暗にそれまでに調べ上げておけよ? 的なやつでしょうか。

 ……ハイ。

 

「そうなると僕も忙しくなるし、君も試験の勉強があるだろうから、お互いに集中しよう。ね?」

「……出掛けたりしていて事務所は開いてないかも、って言いたいんですか?」

「そう! それ、うん。開いてないかも」

「もしかして……わたし、今までお邪魔でしたでしょうか? わたしなんていないほうが……」

 俯いた糸の細い髪が、さらりと流れて悲しそうな白い頸が見えた。

 

「ま、まさか! そんなつもりで言ったんじゃないんだ。い、いてくれて嬉しかったよ。僕もひとりで退屈してたし、うん。あ、いや、でもほぼ毎日とは思わなか……」

 僕が最後まで言い終えないうちに悲しさなんて微塵もなく、にっこりと笑う糸の可愛らしい顔が目の前にあった。


 本当は、最近はいつだって、来るのか来ないのか心配してしまうとも言えず、いつかは、ぱったり来なくなる日を恐れるようになってしまったなんて、言えない。

 糸は、するりと僕の生活の一部になってしまっていた。

 大切なものを掌に乗せる。

 僕は、それが怖いのだ。


「じゃあ、来て良いんですね?」

「……うん。そうだね」僕が留守の時も、好きに使って良いよ、と続ける。

 

「シキさんが居なければ、帰りますよ」


 え? それって?


「ひとりで居るとこの事務所、音が気になりませんか?」


 そう言いながら、糸の視線がゆっくりとエレベーターの方に向けられたのを、僕は見なかったことにした。

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