鶯と枇杷 7
ノートをぱらぱらと見た感じ書かれている海都の字は、この年頃の男の子にしては、とても綺麗で読みやすいものだった。
「海都くん、お姉さんとか居る? もしかして書いて貰ったんじゃないの?」
冗談半分で海都に探りを入れる。
「いないよ。オレ、ひとりっ子だし。字は綺麗だってよく言われるよ。まあ、女みたいだって、悪口の時もあるけどね。そいつら、
美味しそうにホットツナサンドに齧り付き、にやりと笑った海都は幸せそうに咀嚼しながら鼻歌を歌っている。
その様子を微笑みながら見ていた僕の目の端が、何気なくノートに書かれていた最後の一行に吸い寄せられるようにして止まった。目に入る文字に口元の笑みは行き場を無くし、それを張り付けたまま背筋が凍りつく。
それから僕は、海都の産毛の残る柔らかく幸せそうな横顔に視線を戻すと、今は見なかったことにしてノートを閉じたのだ。
この時間を、壊したくなかったから。
海都が帰るのを喫茶店の外で見送った後、僕はノートとコーヒーの入ったテイクアウト用のカップを持って事務所に戻る。
帰り際、海都にノートをちゃんと読むからと伝えると「絶対だよ」と何度も確かめるように念を押され、またねと手を振った後は振り返らずに家へと急ぐ小さな姿を見て、僕も踵を返した。
事務所の扉を開け、出て行った時と変わらない糸の姿勢を見て、なぜかほっとする。
糸の背後から手を伸ばしセンターテーブルにコーヒーを置くと、ソファに座ろうと反対側に回り込んだ。
テーブルに紙のカップが触れる音とコーヒーの香りに、ちらと目を上げた糸が唇に柔らかく笑みを浮かべるのを感じたが、何も言わなかったところを見ると僕が手にしているノートに気づいたのだろう。
僕がソファに腰を掛けようとした時、視線を手元に戻し、再び黙々と試験勉強を続ける糸の姿を見て、僕も海都と約束をした『宿題』を読むことにした。
ソファに深く座り直し、息を詰める。
ノートを開いた。
途端、その最初のページから海都の声が溢れた――。
『覚えていること・思い出したこと』
どうやって書こうか、悩んだ。
でも一生懸命に書きました。
読みにくかったら、ごめんなさい。
もうひとりのオレ『ようちゃん』の記憶は、いつも白黒の世界だ。
その記憶がよみがえったのは、初めて一人でお風呂に入った時。体を洗い終わって、浴そうに入って足を伸ばそうとしたら、突然、足が白黒の世界になった。
あせって立ち上がったオレは、いつものお風呂が知らない所に見えておどろいた。
あわてて両手を見たけど、今度はいつも通り普通に見えた。
だからちゃんと目は見えてる。
だけど重なって見える、みたいな感じだった。目の前に見えているものに、透明な白と黒の違うものを重ねてるっていうか……上手く言葉にならなくてイヤになる。
浴そうの形が違う。
足なんて伸ばせなくて、小さくて四角い。ひざを抱えて入るやつだった。
水道の蛇口の形も違う。
蛇口の先に丸い形の何かが付いていた。
その記憶は全部、灰色で、目の前にあるいつものお風呂場と全然違うのに、なんだか懐かしかった。
お風呂から出て、お母さんに言ったと思うんだけど、のぼせたんじゃないかって言われてそうだと思うことにした。
懐かしいけど、そう感じるのは悪いことみたいで、すごく怖かったから。
それから思い出すことが、スピードを上げてどんどん増えた。
というか、覚えていることを思い出したって言うのかも。よく分からない。
今の自分の、昔の記憶を思い出すと、それと一緒に灰色の記憶がよみがえる感じ。
だけど完全にじゃない。
その中で、分かったことをまとめる。
『ようちゃん』は、お母さんと二人暮らしをしている。お父さんは、いない。
歩いてK鉄道の駅まで行けるけど、駅の名前は分からない。
庭にビワの木があって『ようちゃん』は成ったそれを取って食べる。
『ようちゃん』の小学校での記憶はほとんどない。
ひとつだけ、授業参観の記憶がある。
後ろに並んでるお母さん達の中で『ようちゃん』のお母さんがいちばん若くて美人なことを、自慢に思っていた。
それから、たいていひとりで家まで帰る。
途中に犬がいる家の前を通らないといけないのが嫌なことと、家ではいつも留守番。テレビを観ながら宿題をしている。
当たり前だけど『ようちゃん』の目に映るものを見ているからその顔は分からない。
鏡を見ている記憶が残っていないから。
見えるのは宿題のノートの上に置かれた手とか、お茶わんを持つ手、箸をにぎる指。
かえるのキャラクターのついた筆箱を持っている。あと、ハンカチ。それは、こんなやつ。(注 : 海都による絵が描いてある。なかなか上手い)
歩く時は良く足元を見ていること。よく吠える犬がいる家は、ちょっと中を見て、ちゃんとつながれていることを確認してから、走って前を過ぎること。
『ようちゃん』のお母さんは優しいけど、お酒を飲むとよく泣いていて『ようちゃん』は、それがイヤでたまらない。
それから。
これが、最後の記憶。
水の中からオレは誰かを見上げてる。
これで、おしまい。
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