鶯と枇杷 6
「あのさ、探偵事務所を手伝ってくれるのはありがたいんだけど、バイト代は出ないんだからね?」その辺、分かってるよね。と、僕は、ほぼ毎日……いや、来ないと却って心配になるくらい、K鉄道への遠足の後も、何ら変わらず当たり前のように放課後に事務所へ顔を出す糸に向かって言った。
まあ、ともあれ僕たちに変わる何かがあった訳では、ないのだが。
「もちろんです。それにそもそも、わたしの高校は余程の理由がない限り、原則アルバイトは禁止とされていますし」
応接セットのセンターテーブルでテスト勉強に勤しむ糸は、視線を下に落としたまま僕の顔を見ることなく答える。
そんな僕の心の声が聞こえているのか「自宅でも勉強はしていますよ」と糸が低いテーブルに覆い被さるようにしてペンを走らせながら言った。
その姿勢は、彼女の華奢な首筋から続く鎖骨を通り過ぎて白く柔らかそうな肌がセーラーカラーの開いた胸元にちらちらと覗き、その先の暗がりに沈む辺りまでややもすれば見えそうで、それがまた堪らなく気になってしまい向かいのソファで寝転がりながら本を読む僕には目の毒なことこの上ない。
低いテーブルのため顔に掛かると邪魔だからと長い髪を、緩く後ろに束ねているから、いつもは隠れがちな首筋も艶めかしく、居た堪れなくなった僕は
「どこに行くんですか?」
「……えっと、
「ありがとうございます」
顔を上げてにっこりと笑う糸に、それ反則だよね……と、力なく笑い返した。ひとつテイクアウト入りました、と言いながら事務所を出る。
日の差さない暗く冷んやりとした細い階段を下りて喫茶店へ向かう。
この古いビルにもエレベーターはあるのだが、使う気にはならない。見ていると糸も僕と同じように階段を使うので、一度聞いたことがあった。事務所に来るのに、どうしてエレベーターを使わないのか。
糸は言った『嫌です。もし二人きりで閉じ込められたらどうなりますか?』
それは僕も、全く同じように思っていたことだった。
どうなるんだろう?
どんな日にもあの箱の中には、暗い隅の方で常に背を向けている人が乗っているのだ。
変に黄色が強い蛍光灯のなか、古く汚れたプラスチックタイルの床に申し訳なさそうに小さく背中を丸めて立つ後ろ姿。
エレベーターの扉が閉まる。上昇する際の一瞬の負荷と解放の後、その人が丸めた背をゆっくりと起こし、こちらに振り返ったら……。
「大丈夫?」
その声に、ビクリと身体を震わせ思わず壁に手をつくほどひどく驚いた僕を、海都が心配そうな顔で下から覗き込んでいた。
「顔、なんか青くない? 大丈夫?」
「ちょっと考えごとをしていたんだ。ありがとう、大丈夫だよ」
「あんまさ、思い詰めない方がいいよ。分かんないけど」
海都は優しいのだ。「なんかすげージジイに見えるからさ」
……アイスでもご馳走しようと思っていた気が、秒で失せる。
「……ノート、持って来たんだ」
ランドセルを下そうとする海都を押し留めた。
「喫茶店へ行こう。ここまで来たんだ。アイスくらいはご馳走するよ」
「オレ、甘いのよりしょっぱい方が好きだな」
相変わらず遠慮がない海都に「何でも好きなもので良いよ」と言ったら嬉しそうに笑うその顔を見て、やはりこれは餌付けかと僕はひとり、海都の左頬にある笑窪に向かって呟いていた。
「いらっしゃいま……あれ? 珍しいお客さんだね」
この時間喫茶店は、意外と混み合っている。扉の外に貼られたバイト募集の紙を思い出し、忙しそうにしているマスターに少し胸が痛んだ。
そんな僕の思いを余所に、嬉しそうにマスターが顔全体で笑うのを見て、海都が「なんかどっかで見たような気がする」と小さな声で首を傾げるものだから「似たような犬がいるだろ」と小声で教える。
爆笑する海都と、それに慌てる僕にマスターの不思議そうに首を傾げた様子がまた、ミニチュアシュナウザーが困っているように見えるものだから困ったものだ。
「今日は糸ちゃん、来てないの?」
「いますよ」
「独り占めかい?」
「まさか……事務所で試験勉強しているから邪魔しないように、こっちに来たんです」
その間もマスターの手は、休むことなく動いている。いつもの席に座る僕の隣に、海都の姿を認めて「こんにちは。事務所のお客さんかい?」と話しかけた。
「こんにちは」
少し恥ずかしそうに答える海都の珍しい姿を見て、なんだか僕まで恥ずかしくなる。
さっきまで爆笑してたよね?
メニューを見ながら、そわそわしている海都に、何でも良いよと声を掛ける。
「じゃあ、ホットツナサンド! ……お願いします」
飲み物に迷っている海都の頭に、つむじが二つあるのを見ながら僕はコーヒーのテイクアウトを一つ頼んだ。
ホットツナサンドが出来上がるまでの時間、海都は喫茶店の中をあちこち興味深く見渡している。
「なんか……レトロだね」
この彼一級のどうやら賛辞らしい台詞に、それを耳に挟んだマスターが「ありがとう」と優しく笑み溢れた。
「……あ、あのさ。アレ、書いてきた」
赤くなった顔を誤魔化すように、突然そう言って海都はカウンターの下に潜ると、そこに置いてあったランドセルからノートを取り出し、またスツールによじ登る。
手には一冊のノート。
「読みづらいかもしんないけど……」
なかなかノートを手渡そうとしない海都に、僕は手を伸ばしながら言った。
「大丈夫だよ。僕も字はあまり綺麗じゃないから」
「それって、オトナとして大丈夫?」
あ、うん。そうだね。
タイミングよくホットツナサンドが目の前に現れたので、海都がそちらに気を取られている隙に、ノートを掴んで引き寄せた。
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