セーラー服と菜の花 6



 「あれ? どうしたんだい。珍しいこともあるものだね」


 あの後マスターが店に戻り、エプロンを畳む彼に向かって「今日も夕方からシフト入ってたのに、悪かったね」と声を掛けているのを聞いていた僕は、普段なら訪れることのない時間帯の喫茶店に顔を出したのである。


 さっと店内に視線を走らせた。

 彼は、まだ来ていないようだ。


 マスターは少し驚いた顔で僕を見ていたが、やがて何やら独り合点がいったとばかりに頷く。


「依頼人と待ち合わせかい?」


「……まあ。……そんなところですかね」


 マスターに嘘をつくのは若干の後ろめたさがあるものの、いつものカウンター席からは店内に背を向けることになるため、全体を見渡すことが出来る適当な席を探して、扉の前から店の奥の方へと歩き始めた。

 その時。


 ――カランコロン。


 何とは無しに躊躇いがちなドアベルの音に振り返った僕が目にしたのは、驚くかなセーラー服姿のあの子だった。


「……いらっしゃいませ」


 普段より幾分か気取った声のマスターをよく見れば、僕に対し言いたいことを飲み込んだ白い口髭が微かに震えているのが分かる。

 ただし付き合いの長い僕からすると、目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので飲み込んだ筈の言葉が『なるほど喫茶店ここを待ち合わせに使うのは初めてだと思っていたら、そういうことか。噂の幽霊が、まさかこんなに綺麗な子とは!! いやはや枯れた若者だと思っていたのに全く隅におけない。ホラホラ、気の利いたことでもひとつ、何とか言ったらどうだい?』と目から溢れ出て雄弁すぎるほどに語ってるのが痛い。

 勘弁してよ。


「あの……北村ふしぎ……あ!」


 マスターを見てから一度、皺くちゃの名刺に視線を落とし再び目を上げた彼女は、暗がりに溶け込みたいと思っていた僕を見つけたようだ。


「ああ……やあ」


「ビルの場所が分かったので、来てしまいました。地図機能って便利ですよね」

 そう言って少し恥ずかしそうに微笑みながら携帯スマホかざして見せた。


 マスターをちらと見れば、澄ました真顔でもって体の脇で小さく拳を握りしめ『くうぅぅゥ』と声にならない奇声を発している。どうやら彼女のその表情が、何やらマスターの琴線に触れたようであった。


「……電話くれたら良かったのに」

 そうしたらこんな魑魅魍魎好奇心の塊マスターの居る喫茶店を指定しやしなかったのに。


「今朝、電話したんですけど……お留守だったみたいで」


 僕の微睡みを奪ったアレか……思い当たるのはしかない。


「ああ、そう。じゃあ……」


「奥のお席へどうぞ」


 外へ出るため扉に引き返そうとした僕と、やたら良い声で席に案内するマスターとを彼女は見比べ、選んだのはマスターの手のひらが指す奥の席へ。

 ……。


「マスター……コーヒーと……」


「あ、わたしも同じものをお願いします」


 椅子に座る前に、僕の視線が僅かに下向きに動いたのを目敏く見つけた彼女は「普段はジャージ履いてないですから」と言って、靴下に包まれる細い足首を軽く持ち上げた。


「いや、違うって……幽霊じゃな……ハイ。そうでしたね」

 首を竦める僕に、少し笑う彼女が眩しい。

 どうしてよりにもよって、今日なのか。やはり僕が暴こうとしていると……。


「この間、何かあったら、って言ってましたよね? だから思い切って電話したんです」


 僕の考えを中断させた彼女の柔らかな声が、逃げるように去ったあの日の別れ際を思い出させた。

「……あ、そうだったね」

 あの時は急いでいたからと、しなくても良い僕の言い訳を遮るように、彼女は続ける。


「あの幽霊、動いたんです。あの場所から少しずつ土手に向かって来ているようで……わたし」だから連絡した方が良いと思って。


 ……なぜ?

 

 なぜそんな怖いことを僕に……って名刺に書いてある文言を思い出し、頭を抱える。

「そっか……ああ、そうなんだよな」


 どんな不思議でも承ります。


「ね? 不思議ですよね」

「ハイ」


 あの異形なモノは、どこを目指しているのだろう。そう、多分もしかしたら……。


「……噂って、どういうものか知ってる?」

 僕はコーヒーを淹れながらこちらの様子を窺うマスターに軽く顰めツラをしてみせる。


「……?」


「ひとつの噂も……色んな人から聞くよね。だけど突き詰めていけば、たった一人の何気ない話が、始まりだったりする。つまり裏を返せば、噂とはそれを故意に作ることも出来るものなんだよ。それはまた便利なことに……ウソを真実に変えたい時、あるいは、真実を隠したい時にも、ね」


「……え? どういう……?」


「僕の聞いた噂はね……」

 菜の花の中に立つセーラー服姿の幽霊の話をして聞かせた。


「それって……」


「そう君、だ。だけど噂を流したのは、もちろん君じゃない。君は使だけなんだ」


「……誰、に?」

 首を傾げ眉を顰めた彼女に、僕は噛み締めるようにゆっくりと答える。


「あの土手の辺りに、近づいて欲しくない人だよ」


 軽快なドアベルの音が聞こえた。


「おはようございます」

 夕方にそう挨拶しながら入ってくるのは、一人しかいない。


「やあ、辰巳くん。今朝は、ありがとう」


 ……彼、だ。

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