セーラー服と菜の花 5



 事務所にある雀荘の名残りとして置かれたままになっているピンク色のくたびれた公衆電話が、酷い音で事務所中に鳴り響いたのは、僕が応接セットのソファの上で毛布に包まり気持ちよく微睡んでいる時だった。


 あのあと事務所に戻ってからの調べものは朝方まで掛かったものの、予想通りの結論が導き出せる喜ばしいものではなかった。


 だが、証拠となるものは、何ひとつない。


 本人は認めずに、僕の勘違いや思い込みだと言われたらそれまでだし、もしかしたら実際にそうなのかもしれない。

 

 果たしてそれをどうやって本人に確かめたらよいのだろうか? あるいはマスターに迷惑を掛けることになるなら、知らんぷりでも僕は一向に構わないから、このまま放っておくべきか? いや、だけど結果、放置していていずれ迷惑をかけることになるかもしれない。知っていたのにどうして教えてくれなかったのか、とマスターに責められるのも回避したい僕にとって、これまた正直に言えば僕次第でどうにでもなる問題に突き当たり、何とは無しにソファに横になったまま悩んでいたのである。

 

 夜通し調べものをした後で、横になれば眠くなるのは、どうしようもない。朝が来たからといって、世の中の動きに合わせることはしない僕は、実に怠惰な人間なのだ。

 さらには、この眠りに落ちる一歩手前の寝てしまうか、いや寝まいかとする浮遊感の気持ちよさといったら……。

 だが、またそういう時に限って、普段は鳴らない電話が鳴るものなのである。


 事務所にかかってくる電話は、過去の雀荘に繋がると思っている頻繁な間違い電話か、現在の僕に宛てた滅多にない依頼の二種類しかない。

 大抵は間違い電話であるが、こちらが受話器を取るまで鳴り続く毎度のその執念深さは何とかならないものか、と思っていたら思っていたよりも随分と早く途切れた為、依頼の方だったかなと再びソファに沈み込もうとしたが、微睡みは引く潮のように遠くへ行ってしまった。


 ……やれやれ。


 階下したの喫茶店でコーヒーを飲もうと、起き上がる。寝不足の上に、モニターをずっと見ていたせいで眼球がしみじみと滲みるように痛い。のそのそと身体を動かし、暗くひんやりとした階段を下りる。喫茶店の扉までの僅かな日差しが目の奥に刺さった。


「いらっしゃいませ」


 扉につけられているドアベルが、優しい音を立てるのと同時に、聞き慣れない声が僕を迎える。

 壁にあるアンティークの柱時計を見た。

 この時計は喫茶店の開店祝いに、祖父がマスターに送ったもので、決して高いものではないが、黒柿製の木彫りの漆塗りで仕上げた手の込んだ美しいものである。この店によく似合うこの柱時計の時刻を表す琺瑯製の文字盤を眺めながら、マスターの不在について考えていた。


 カウンターのいつもの席に座りながら、疑問を口にする。

「……開店したばかりだよね? こんなに朝早く、マスターは?」


「忘れ物をしたと、家に戻ってます。近くに住んでいるんで、大学の授業の始まる時間に間に合うまでヘルプに入ったんですよ。コーヒーですか?」

 サイフォン式のコーヒーで良ければ、お出しできますよ。と僕に言う彼の姿を頷きながら、まじまじと見つめ直す。


 彼が店にいるのを一度か二度、外からガラス窓越しに見たことしかなかったが、こうやって実際に目の当たりにしてみると、自分の魅せ方をよく分かっているなと感じる。

 マスターの話に出て来る客の中から、目の前の僕を即座に結びつけたのだろう。初対面にも関わらず、僕が誰かというのを瞬時に把握したその対応に舌を巻いた。

 

「……やだなぁ。そんなに見られると緊張します」

 

 そう言いながらも彼は、僕のことをしっかりと見返して微笑みを浮かべた。

 そしてその表情を変えることなく、あらかじめ湯を通して温めたフラスコに適量の湯を入れ、ボールの底の水気を拭き取るその落ち着いた手つきは、僕に見られていることを意識しているなど微塵も感じさせない。

 引き続きアルコールランプに火を付けて湯が沸いたのを見計らい一旦火元から外すと、ロートにコーヒー粉を入れフラスコにロートをしっかり差込み、火元に戻す。

 湯がロートに上がってきたら傍に置いてある1分計の砂時計を素早くひっくり返すと、竹ベラで全ての粉に湯が浸透するよう器用な手つきで全体を攪拌する様を、僕はじっと見続けていた。


「マスターから聞いたんだけど、セーラー服姿の幽霊が出るんだって?」


 砂時計の砂が落ちたら、火を止めて二回目の撹拌に移る。

 竹ベラを動かす彼の手つきに乱れはない。


「ええ、そうみたいですね。土手には近寄らない方が良さそうですよ」


「誰に聞いたの?」


「……大学の友達だったかな。どうして、ですか?」


「マスターに聞くと、君は店に来る人にも話しているみたいだし随分と詳しそうだと思ったから、他にも何か知っているんじゃないかなってね」


 温めたカップに出来上がったコーヒーを注ぐと、僕の前に置いた。

 目を見て、お互いニコリと笑う。


「どうぞ」


「……ありがとう」

 彼に視線を向けられたままの僕が、カップを持ち上げ目を伏せてそれに唇を寄せたとき、ドアベルが柔らかく音を立てた。


「いらっしゃいませ」


 扉の方に顔を向けた彼の横顔に、さっと目を走らせる。

 これまでのやり取りの平然とした彼の様子は、見事なものだった。だが、かえってその様子が僕の疑いを、確信へと変わらせたのだとも言える。


「コーヒー、美味しいよ」


 ありがとうございます。と彼は僕に言い残し、入って来た客の注文を取りにカウンターから離れた。

 マスターの不在は何かを引き寄せたのか、あるいは何かに引き寄せられたからなのか。


 さて、どうしようかな。


 僕はコーヒーをゆっくりと口に含んだ。





 

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