セーラー服と菜の花 4




 「また、それは……クククッ。さ、災難だったようだね」

 

 笑いを噛み殺しきれないマスターの、震える白い口髭を見ながら僕はコーヒーに口を付けた。

 一旦、自宅に戻りアブラムシだらけの服を脱ぐと頭からシャワーを浴びて髪を丁寧に洗い、着替えて鼻の穴耳の中まで掃除して、ようやく人心地に着いたのだが、あのびっしりと身体に付いた小さな虫の気持ち悪さを思い返すたびに、僕の両腕に隆起する同じくらいの大きさの……。

 首を左右に振っている僕を、少しだけ気の毒そうに見たマスターが「食べなさい」と差し出してくれたのは。


「菜の花のキッシュだよ。お昼も食べていないんだろう?」


「だとすれば辛口の白ワインか、スパークリングワインか何かを……いや、何でもないですよ。あははは……菜の花か」


 軽口を叩いた後で大人しくフォークを動かしている僕に、マスターが聞いてくる。


「セーラー服の女子高生は、実在していて、その子が不思議な話を運んでくる……か。それからどうしたんだね?」


「事務所の名刺を渡したから、何かあれば連絡でも来るんじゃないですか」


「まさかとは思うが、その場から逃げ出したのじゃあないだろうね?」


 そのまさかとは正直に言えないので、キッシュを食べて誤魔化していると畳み掛けるように質問が続く。


「それで川の真ん中に、見えたのかい? どんな様子の? やはり当たり前だが、見た感じ生きている人とは違うんだろうね? 私がそこに行ったら同じように見えるだろうか?」


 マスターの好奇心旺盛なそのキラキラと輝く目を見ながら、探偵業に向いているのは僕ではなくこのミニチュアシュナウザーに似た彼なのではないだろうかと思う。まるでボールを持つ僕が『待て』でもしているような気分になるのはどうしたものか。

 まあ、どうであれ僕が探偵をしているのは……。「余生……」

 マスターの言葉にどきりとする。


「余生の暇つぶしの話題にと、わざわざ足を運ぶのは、その幽霊に不謹慎かね?」


「さてね。幽霊に感情があって物を言うのだとしたら、何と答えるのかはそれぞれだと思いますけど」


 川の中ほどに立つ幽霊。


 セーラー服の彼女が示した場所に僕が見たのは、全身炭のように真っ黒で顔形どころか性別などすら判別できない姿だった。

 怖気おぞけを震うとは、まさにあの時。

 あれを見た瞬間、その真っ黒な人型が遠く離れた僕たちの方に身体の向きを変えたように見えたのだ。

 ……ようやく気づいてくれたのか、と。


 僕は震える手で、尻のポケットから皺くちゃの名刺を取り出すと、押し付けるように彼女にそれを渡して「何かあったら、その時は……」連絡してもしなくても、と言い捨ててその場を後にしたのである。

 真っ黒なあれが、追いかけて来ないことを祈りながら、つまるところは逃げ出したという訳だ。

 それにしても、実際あれを目にして見極めようと思う彼女は怖いもの知らずというのか、怖いもの見たさというのか。あの儚く綺麗な姿とは裏腹に、ともかく豪胆であるのは間違いない。


「なんだか聞いた限りでは、怖いものみたいだな。見た人が失恋するセーラー服姿の幽霊って方のが、色っぽくて良かったんだけどね」


 食べ終えた僕の皿を片付けながらマスターが言う、セーラー服姿の幽霊、その言葉に彼女を思い出す。

 菜の花の中に立つ、儚げなあの姿を。


「そうですね。僕もそっちのが良かったかな。……綺麗な子でしたよ」


 僕に向かって片方の眉を上げただけで、マスターはそれ以上何も言わなかった。

 外とは隔絶された静かな夕暮れの時間。

 新しく淹れてもらった馥郁たるコーヒーの薫りが、湯気と共に鼻腔を抜け僕を正しく調律してくれる。


「……ところで、幽霊と失恋の噂を持って来たのはバイトの子でしたよね? ここ、長いんですか?」


「そうだね。一年くらいかな? それがどうかしたのかい?」


 ちょっとね……とだけ言ってコーヒーを飲む僕を、マスターが何か言いたげに見ているが気づかないフリをした。こればかりは憶測で物を言って良いものではないような気がしたからだ。

 これから事務所に戻り、いくつか調べものをしなくてはならないのだが、隠されていた残酷な真実を掘り起こすようで、あまり気が進まない。

 気が進まないのなら、しなければ良い。

 それに特に今回のことは、誰かの依頼ではないのだから素知らぬ振りで済ますべきだと、もう一人の自分がしたり顔で忠告してくるのも鬱陶しい。『あのことを忘れたわけじゃないだろう?』『今度こそ僕の思い過ごしかもしれないじゃないか』と。

 ふと思いついた疑念が、真相を導くかもしれないと考えたとき、それを無視出来る人間なら例えこれが世の中と繋がる唯一の方法だとしても、僕は探偵業こんなことはしていないだろう。世の中に別れを告げ、あの世にさっさと消えてしまっているか……まあ、この線は到底有り得ないが、違う職業に就いていた筈である。

 一度芽生えてしまった疑いを簡単に消すことなど出来やしないから、この世の中と僕とを繋ぐ細い糸に、例え生きる価値のない僕でもまだ死ぬ訳にはいかないのではないかと、いみじくもぶら下がる今の姿があるのだ。

 


「ごちそうさまでした」


 そう言って立ち上がりながら僕のカップを受け皿に置く音が、やけに高く耳に残った。


 

 

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