セーラー服と菜の花 3
無様に尻餅をついたまま空を見上げる僕のみずいろを映す視界の中に、黒い人影が突然現れた。
「……大丈夫ですか?」
「セーラー服姿の幽霊が……」
話しかけてくる筈もない。いや、ないとは言えないがきっと、もしそうなら多分、こんなに可愛らしい声ではないだろう。
つまり僕を見下ろしているのは、年代もののセーラー服に身を包んだ紛うことなき、
顔形は陰になってしまって見えないものの、耳に掛けた髪がさらりと落ちるのは白い肌の華奢な首筋。何かを言いかけて軽く開かれたしっとりと柔らかそうな唇に、目が吸い寄せられる。
その唇がまるで誘うように動き、色々な意味での衝撃で、なかなか立ち上がれない僕に追い討ちをかけるが如くそこから放たれた彼女の一言は「あの……洋服にアブラムシ、びっしりついてますよ」だった――。
「……えぇ」
颯爽とは言い難い感じではあるが、何とか立ち上がり身体を見下ろす。
「……!! ※♯♭△£!!!?」
……叫びたい気持ちをぐっと抑えて、何でもないように努めて装いその真顔で
「あ、大丈夫。ありがとう」と彼女を見返しながら言う全く大丈夫ではない僕に、見透かすような冷たい視線が、痛い。
それにしても、綺麗な子だった。
背中の中ほどまで真っ直ぐ伸びる癖のない髪は、柔らかな風にふんわりと舞い、白い肌は滑らかにセーラー服の暗がりの中へと続いている。長い睫毛が縁取る、水色の空と黄色い菜の花が映り込む印象的な瞳から目を逸らすことが出来ない。
いや……。
「……そう、ですか」
全然大丈夫そうじゃないですよね? と言いたげに、髪を押さえながら小首を傾げるその様子もまた、可愛いらしく……。
「だけど君もそこに立っているということはアブラムシ、くっついているんじゃない?」
ああ、そんなこと言う筈ではなかったのだが勝手に口が、と内心慌てふためいている僕を知る由もない彼女は、その少し意地悪な言葉に儚げに笑いながら小さく頷くと、
「!?……わぁああ……あ? あ、アレ?」
「だからジャージを……って……何しているんですか?」
見てはいけないものというのは、なぜか誘惑を伴い、見ずにはいられない。その葛藤と闘うべく目を覆っているはずの指の、呆れるくらい頼りないその大きな隙間から覗いていた僕の目に映るのは、限りなく、セーラー服とは似つかない透明な、わけがないブルーの、ジャージ。
「叫んだのは、えーっと……足! そう、足だよ! 足があるということはつまり、幽霊じゃなかったんだという驚き……いや、安堵かな。それと、まさか今どきジャージを履いているJKがいるんだな
「幽霊……それに今どきJKって……」
それぞれの今どきの定義を巡って、束の間のぎこちない沈黙が、僕と彼女の間に流れた。僕たちを包み込む菜の花の香りが強く鼻を掠める。沈黙に耐えきれず先に口を開いたのは僕だった。
「……ところでそのセーラー服の理由を聞いても?」
彼女は、少し寂しそうな顔でセーラー服を見下ろすと「母の、だったんです」と言った。
「実は……少し前に、こっちに引っ越してきたんです。そしたら、わたしが通うことになった高校に昔、母が通っていたのを知って……。写真でしか見たことがなかった母の着るセーラー服が、祖母の家に大事に仕舞ってあったのを見つけて……だから、わたし……」
「そうか、そうなんだ。それで……」
「あの……さっき言ってたその幽霊って……? ところで、この……セーラー服、着てたらやっぱりマズいんでしょうかね?」
セーラー服は、彼女に良く似合っていた。
おそらく、写真の中の彼女の母も同じように綺麗な子だったに違いない。
僕は柄にもなく、彼女を慰めたくなる。
「いいんじゃないかな。その高校、今は自由服だって言うんだろ?」
彼女は明らかにほっとした様子で、少し恥ずかしそうに笑った。
「良かった……。昔の制服を着るのだって自由服、になりますよね」
「だけど、何でこんな土手の真ん中に立って、川向こうなんか眺めてるの?」
「ああ……それは」
聞けば最初のうちは、遊歩道脇に立って景色を眺めていたらしい「引っ越したばかりで知り合いもいないし、川の向こうのX Y市に住んでいたから懐かしくて」その方向を見ていたというのである。
「いや、うん。ぼっち、なのは仕方がないにしても。……さすがに、ここからX Y市は……見えないよな?」
もしかして、もっと近くに行こうとして土手の真ん中に? というか入学式前からそのセーラー服を着ていたのは、なんで? やばい。ツッコミどころが多すぎて、何と言ったらいいのだろう。
「あの、そんな残念そうな目で見ないでください」
「あ、アレ? 顔に出てた?」
心外だというばかりに、彼女に軽く睨まれてしまう。
しかしなぜその上、ジャージを下に履いてまで、なぜアブラムシが大量に付着する菜の花の中の群生に足を踏み入れ……。
「あの……幽霊って言われてましたよね?」
君がね、と言おうとしたその時だった。
「やっぱり……。わたし以外にも見えている人がいたんですね」
「えっ? それって」
どう言うことなんだろう。
「川の真ん中に、いつも立っている人がいるんです。最初は目の錯覚かとも、あるいは何かが人のように見えるだけだと思い込もうとしていたんです……。でも、やっぱり……それで、わたし見極めようと思っているうちに、だんだんと土手を下りてしまって……」
彼女が綺麗な姿勢で、すっと川の中ほどを指差し言った。
どんな日にもいるんです。
あそこに、髪の長い女の人が――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます