セーラー服と菜の花 2



 それはこんな夢、だった。


 ……。



 目の前に、俯く女がいる。

 垂れ下がる真っ黒な流れるような髪のせいで顔は見えない。

 肩を震わせ泣いているのかと思ったが、よく見れば白い指を揃えたその片手が押さえているのは、目元ではなく女の額であった。

 とすれば、笑っているのだろう。

 どうしました? と声を掛けてから、しまったと後悔する。

 知らない女が額を押さえたまま、上目遣いでこちらを見た。

 ……のが。

 小さな声に思わず身を乗り出す。


 ……。

 ……ツノが、生えてまいりました。


 そう言って退かされた手の下の、白い額には小さな突起が二つ。隆起したそれは柔らかいのか硬いのか、触るのを誘うかのように滑らかな先端をしている。

 女の白い顔に浮かぶように見える、べっとりとした紅い唇が艶かしく蠢いた。



 ……貴方あなた所為せいですわ。



 それに危うく手を伸ばすところで、目が覚めた。



 ……。


 みたくない夢ばかり見るのは、いつものことだった。

 寝ている間にみる夢は、自身が受けた情報と過去の記憶が混線した状態で映像になって現れているものであるなら、たとえそれが悪夢になるのだとしても僕には夢で会いたい人がいる。


 とは言え、僕がみたい夢を見られたとしても悲しいだけかもしれない。


 なんてことを思いながら目が覚めたあとも僕はしばらくソファの上で横になったまま、かつての雀荘だった過去に煙草の煙から出るヤニで描かれた、どこかの地図のような茶色い模様のある天井を見上げていた。

 見るたびにその地図にある知らない世界へ船を出してみたくなるが、そこに何かの答えがあるのかは甚だ疑問だ。そうは言ってもそこに浮かべる船を持ってはいないので、ひとまずは外に散歩にでも行こうと、僕は勢いよく毛布を脇に退かすと大きく伸びをしてソファから立ち上がる。

 窓の外を見れば、まだ昼なかだった。

 随分と長く寝てしまったのかと思っていたけれど、横になった途端に翌日までの丸一日を寝てしまったというんじゃなければ多分、同じ日だろう。


 階段を下りコーヒーにありつけそうかどうか、ヘデラの蔦が絡まる喫茶店の年季の入った木枠の窓を外から覗き込んでみると、マスターが愛想の良い顔を年配のご婦人方に向けているのが見えた。

 マスターのファンは意外にも妙齢の女性に多いので、彼よりもやや歳上の彼女たちは単なるお客様か、常連の気安いお友達だと思われる。

 ……おっと。

 慌てて頭を引っ込めた。顔をこちらに向けたマスターが、僕に気付いて小さくウィンクをしてみせたせいで、ご婦人方が振り返るその前にと、そそくさと逃げるが如くその場を立ち去ることにする。

 なにぶんにもあの様子では、ご婦人方とマスターに捕まると長くなるのは避けられそうもないと今までの経験が物語っていたから。

 

 歩き始めた僕が見るともなしに細長く切り取られたような水色の空を見上げていたら、ふと先ほどのマスターの話を思い出した。

 セーラー服姿の幽霊、とやらを。

 そこに行ったからといって、その姿を見られるという確証があるわけではないが、僕にはこの先取り立てて予定もない。

 何とは無しに僕にウィンクを寄越したマスターの思惑は、そこにあったんじゃないだろうかと思えて少し癪だが、散歩がてら川堤まで歩くか、と足をそちらに向けながら、そういえば夢の中に出てきた女は、ツノと唇ばかりが心に残って、顔は全くといって思い出せないなと考えていた。

 

 春の陽気が、柔らかな風を運ぶ。


 歩いているうちに、うっすらと汗ばんでくるくらいの良い天気だった。

 沢山の人が僕を追い越してゆく。

 きりりと引き締まった表情のスーツを着た男性。綺麗に化粧した顔の艶々とした明るい髪色の女性。それからしばらく進んだそのあとに、ムクドリの群れにも似た下校途中の少女達とそれを冷やかす同年代の少年達を見て、ふっと頬が緩む。

 楽しそうにはしゃぐ少女達の甲高い笑い声が、青い空に吸い込まれてゆく。散るように彼ら彼女らの姿が見えなくなっても、それは長く尾を引いた。

 

 そうこうしているうちに目の前が抜けて現れた一面に黄色い斜面に、僕は息を飲む。

 けぶる、という言葉の訳が分かる。

 びっしりと斜面を覆い尽くす満開に咲き誇るその小さな一つひとつの花弁を遠目から見れば、それと重なる空の辺りをも黄色くぼかしてしまうほどの群生であった。

 歩みを進めるごとに、みずいろの空と黄色い菜の花が溶け合うその風景が近づいて来る。階段を登り、川堤の遊歩道に立つとその圧巻の眺めに思わず僕は、目を細くした。


 これほどまでの、春に。

 

 あのこと以前の僕に向けて、皆と同じものを見ていたあの頃の僕に向けて、もしかしたらマスターは、この景色を僕に見せたかっただけなのかもしれない。あの日、自ら目を閉じてしまった僕に見せるために。


 春は、既に来ているのだと。


 優しい嘘で、僕を目醒めさせようとするマスター。

 もしかしたら、昼間に見える幽霊などは彼の創作物であって、実際には存在しないのではないだろうかと思い始めたその時。

 

 ……セーラー服が、見えた。


 僕が登ってきた反対側の斜面、川を望む方のその中に、膝のあたりまで菜の花に埋もれるようにして立つセーラー服の後ろ姿は、けぶるような空とのあわいにすっと背筋を伸ばしている。


 その姿に目を奪われた僕は、知らずのうちに近寄って行ってしまったその結果、見事に斜面で足を滑らせたんだ。




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