北村ふしぎ探偵事務所

石濱ウミ

第1章 春ひとつ目

セーラー服と菜の花 1



 セーラー服姿の幽霊が、いる。

 

 まことしやかに囁かれるその噂話によるとその幽霊は、川縁の土手に群生する菜の花の中に、すうっと立っているのだそうだ。

 遠く川向こうを見つめる、みずいろの空と黄色く烟るあわいに溶けてしまいそうなその儚げな姿は、恐ろしげというよりも哀しげに見えるのだという。


「それを見た人は、失恋するらしいよ」


 昔から通っている喫茶店で、白い口髭を蓄えたマスターがカウンターに座る僕にコーヒーを差し出しながら言った。

「バイトの子に聞いたんだけどね」


「……ふぅん」

 カップに口を寄せながら答える。

 僕があまり興味を示さない様子を見て、マスターが片方の眉を上げた。


「おいおい。北村ふしぎ事務所の所長が、そんな風で良いのかい?」

 

「依頼されたわけじゃないし、金にならないからなぁ。……それよりも、バイトを雇う余裕があるなら賃料でも上げましょうか? そういや、もうすぐ更新の時期じゃなかったかな」


 表通りから一本奥に入った通り。

 暗く薄汚れた古い雑居ビルの一階にあるこの喫茶店に足繁く通う僕は、その脇にある細い階段を登った先の最上階角部屋を、事務所として使用している。

 そこは以前、古いビルにはお約束きまりの雀荘の一つだった。ところがその経営者が夜に紛れて世間様から遁走してしまったため、これといって新しく借り手が見つかることもなさそうな空き部屋をそのままにしておくのは勿体ないと、数年前から僕の事務所として使っているというわけである。

 入り口の硝子扉には『北村ふしぎ探偵事務所』と掠れた白い文字で書かれているが、実際のところは、看板を掲げているだけの開店休業状態だ。

 ではどうやって食べているのかと問われれば、僕は単なるつまらないビルのオーナーとして、生活を送っているに過ぎない。

 気楽な身分が羨ましいよ。趣味を仕事に出来るなんて素晴らしいじゃないか、とよく嫌味を言われるが探偵は趣味ではなく、僕が世の中を確実に生きていると肌で知るために、必死でぶら下がる細い糸なのである。


「そんな脅し文句を使うなんて、君のお祖父さんが生きていたら育て方を間違ったと泣くだろうね」

 祖父との取り決めで、この喫茶店の賃料が決して上がらないことをお互いに知っているからこその戯言だった。


「それにしても、何棟かビルを持っているくせに、なんだってこのオンボロに居座ることにしたんだね? まだ若いんだから、せっかくならもっと華やかな所にすりゃ良かったじゃないか」


「……落ち着くんですよ」

 

 言って、口に含んだウィスキーにも似たスモーキーで甘い果実を思わせるコーヒーの香りが、鼻の奥へ抜ける。


「見た目だって悪くないどころか、黙って微笑みさえすれば勘違いする女性だっているのに、なんだってそう厭世的なのか……あ、いや……まあ……」


 あのことを知るマスターが、僕から目を逸らし言葉を濁す。その様子が怒られた時のミニチュア・シュナウザーに似ていて、僕はカップに唇をつけたまま、少し笑った。


「……で、マスターが聞いたその幽霊。青空の下、群生する菜の花に立っているって、その様子を思い浮かべるだけで絵になりますけど……完璧に昼間ですよね。どう考えても、それ見間違えじゃないですか?」


「それそれ、それなんだけどね。着ているセーラー服が、どうも三十年前くらいのものらしいって言うんだ」


 聞けばそれは、この辺りでは有名な進学校の三十年前の制服であり、現在もそこは進学校に変わりはないものの、今は昔と変わって非常に自由な私服高としても名高く知られている。


「だからかなぁ……失恋して自殺した幽霊だとか、大学入試に落ちて自殺したとか言われてるんだよ。春に姿を見せているせいもあるだろうけどね」


 なるほど。だから『見た人は失恋する』なんて言われるのか。

 ならばそれが幽霊だとしても何故、今になって現れたのだろう?

 目の前のカウンターの綺麗な木理に、僕がぼんやりと目を落として考えていると、まるでその心の声が聞こえているかのようにマスターが言った。


「不思議な話だよね。今になって現れる三十年前の幽霊。まさに北村ふしぎ事務所の出番かと思うんだけどなぁ」

 

 静かな店内に響く触れ合う陶器の音に耳を傾けながら、僕は黙ってコーヒーを飲む。

 芳ばしい薫りの中で、何もせずに窓の外を見ながらこうしている時間を至福と呼ぶのだとしたら、その人には忙しい毎日があるということだ。

 僕にその至福の時間とやらは、未だ訪れてくれそうもない。

 そうこうするうちに昼近くになったこともあり、この喫茶店にも人が増えてきたから事務所に戻ることにした僕は、席を立ちマスターに軽く目配せをする。小さな挨拶が返って来たのを認めた後、コーヒー代をカウンターに置いて扉の外へ出た。


 灰色に冷んやりと暗く、あちこち汚れた狭い階段を上り、鍵の掛かっていない事務所のガラス扉を開け、中に入る。

 雀荘の名残りとして置かれたままになっているピンク色のくたびれた公衆電話を横目に、応接セットのソファへと真っ直ぐに進んだ。放りっぱなしの柔らかな毛布に包まると横になって惰眠を貪ることにする。


 暖かい春の陽気は、あっという間に僕を眠りに誘うのだ。




 そして僕は、みたくない夢を見る――。













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