猫と鯖雲 3
猫のぴんと立つ尻尾を見ながら、後をついて行く。
僕の後ろには糸が、その後ろに友花さんの順で、きちんとついて来ているのかと確認するように、時折り振り返りちらと視線を寄越す猫を先頭に、縦一列にぞろぞろと庭木の間を潜り抜ける。
気づけばいつの間にか、母家の脇を通るようにして屋敷の奥に入り込んでいたようで足元を見れば、芝生の中を縫うように御影石を所々使用した細い園路の上を歩いていることから、どうやら猫は僕たちをこの先にあるであろう庭園に案内していることが分かった。
ユキヤナギ
トリネコ
ユスラウメ
その樹々の下にはビルベリーやゴールデンモップ、クリスマスローズなどがさまざまに、庭を鮮やかに彩るその中を、猫の尾を見ながら進むのは幼い子供に戻ったようなそんな気持ちにさせられる。
やがて視線の先、段差があるのだろう目線より下に、小さな
音も立てずに、軽ろやかに跳ねるようにして数段の階段を降りた猫は、そこでようやく立ち止まると僕を見上げてニャアと鳴く。
「みつる、こんなところまで……お祖父さまは……」
友花さんの困ったような声が後ろから聞こえる。
……あ。
前から現れた優しい手が、ぬっと猫を持ち上げた。その抱き上げた手で、柔らかく伸びる猫の身体をくるりと丸めるように胸に寄せたその人は……。
「お祖父さま……まあ、ここにいらしたんですか?」
お加減は、と言いかけた友花さんの言葉を片手を上げて遮ると、僕と糸に向かって目を細めた。
「やあ、君が北村くんかね? みつるは君に合格点を与えたようだな」
はじめまして、北村と申しますと挨拶をする僕に、友花さんの祖父は鷹揚な笑顔で頷くと背を向け、すぐ目の前の四阿に向かって歩き出した。
「こっちへどうぞ。良かったら座りながら話そう。友花はお客様にお茶の支度を。おや……可愛らしい娘さんだね? 君は?」
そこで振り返ったことで、初めて糸に気づいたらしい。
「こんにちは、はじめまして。
「僕の……そのう……助手のようなことをしてくれています」
僕を糸を交互に見た
「みつるの……この猫の話を、聞きに来たのだったね? 世の中には色々な仕事があるものだと、この歳になってからも中々興味は尽きないな。それにしても、つくづく感心してしまうよ。私なぞは自分の父親の仕事を継ぐだけのことしか考えてこなかった。それが良いのか悪いのかは、さて置いてもね」
宮藤氏は、そう言いながら腰を掛けると、まだ立ったままだった僕と糸に向かって「さあ、どうぞ座ってください」と手を動かした。
「実のところ、みつるがこうして君たちを連れて来なければ、会うつもりはなかったんだ。ところが、どうも北村くんを気に入ったらしい。……ならば会って話をしようとね」思ったんだよ。
彼の視線の先には秋の庭が、その膝の上には丸くなり微睡む猫がある。
「みつるは捨て猫でね。と言っても誰かが捨てたというのではなく、この庭に産み捨てられていたんだ。もう八年ほど前になるかな。か細い鳴き声を頼りに、探してみると他の兄妹猫は見当たらず、どうしたものか、このみつるだけ。配色の見事な三毛猫だろう? ひと目で恋に落ちてしまったようなものだな」
膝の上の猫を愛しそうに見る宮藤氏は、つと顔を上げ僕を見て「みつるの声が聞こえるようになったのは、ここ一年なんだよ」と言った。
「私の家にいる時間が、増えたことと関係しているのだろうね」
――忘れもしない、その最初の言葉は『雨が降る』だったよ。
あれは、朝にはまだ早い薄闇が残る青い空を、窓ガラス越しにベッドの中から不思議な気持ちで眺めながら、目が覚めてしまった理由を考えていた時だった。
誰かの声で、浅い眠りから醒めたように思ったが、夢だったのだろうとぼんやり横になったまま、妻の居なくなって広くなった寝室の天井を見上げていたんだ。
その時、そうか私は寂しいのだ、と他人事のように思っていたのを覚えている。
ふと、頭のそばに、みつるの姿がないことに気がついてね。
一人になった頃から、まるでお互いを慰め合うかのように、みつるは子猫の頃に戻ってしまって頭や顔の近くで寝ていることが多くなっていたんだ。それはいつでも目を覚ました時に、一人と一匹がすぐに安心出来るようにと言っているようで随分と救われたものだよ。
その、みつるの姿がないことで突然、窓ガラスの向こうの空の冷たさを感じた。妻がこの世から居なくなった日も、病院の窓の外はこのような空の色だったと思い出し、胸が痛くなった。朝焼けが始まる少し前の、ね。
……その時。
誰かの話し声が聞こえた。
自分以外、誰もいないはずの部屋で、判別出来ない言葉に続いて暫くの間を置き『雨が降る』と、はっきりした声が。
それはまだ妻が生きていた頃、みつるに向かって「お顔を洗っているの? 雨になるのかしらね?」と話しかけた後、その言葉に考えるような仕草をして、ニャアと返事をするのと同じような間合いで。
夢なのだろうか。
まだ、寝ぼけているのだろうか。
――上体を起こしてそこに見たのは、ベッドの足元で天井の隅を見上げている、背筋を伸ばしたみつるだった。
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