猫と鯖雲 2


 天を仰ぐと明るく澄んだ御空みそら色の空に、小さく白い片がまるで、さざ波のように寄せている。

 あるいは、巨大な魚の腹を見上げているような、翻る魚群を見上げているような。

 いずれにせよ、海だ。

 秋の空もまた、海に似ていると思う。


巻積雲けんせきうん……鱗雲ですね」


 僕と同じように天を見上げていた糸が突然、空に向かって両手を伸ばした。

「……どうしたの?」

「空が高くなったなぁと、思ったら何となく手を伸ばしてみたくなったんです」


 糸の真似をして、両手を伸ばしてみる。

 空ばかりを見ていると近いのか遠いのか、分からなくなって「なんだか酔いそうだ」と思わず呟いたのを聞かれてしまった。


 ふふっと糸が笑う。


「……え? 何?」

「シキさんって大人なのに、時々ひどく子供っぽいですよね」


 隣を歩く糸が、そんなふうに嬉しそうに笑うものだから、この頃の僕は欲が出てしまうのだ。

 昔のことを忘れることなんて出来ないのは分かっている。だけどせめてもう一度、この掌に大切なものを……。


「着きましたよ」


 糸の声に、はっとして顔を上げると、そこにあるのは大邸宅というに相応しい家屋があった。

「……え、コレ? このお家が……?」


 立派すぎる門構のその表札の文字を見れば、間違いなく『宮藤』と掲げられている。


「そう言えば……友花ゆかさんは、お祖父さまって言ってたよね」

は、『お嬢さま』だったんですね」


 何だか、ちょっと冷たい言い方じゃない?

 まあ、とにかく依頼人、宮藤くどう友花ゆかによれば、言葉を喋るのは祖父の家で飼われている三毛猫なのだそうだ。


「なんとなく気圧けおされるよね……って、あれッ。ちょ、ちょっと待っ……!」


 僕が深呼吸でもしてから押そうとしていた呼び鈴を、すたすたと歩いて何も構えることなく押した糸が「何か言いました?」と振り返る。

 は、早いよ。


『……ハイ』

「北村と申します」

『……伺っております。お入り下さい』


 お手伝いさんらしき女性の声が、ぶつりと消えた途端、門の鍵の施錠が開く電子音が聞こえた。

「なんか無愛想な人だったね?」

「お手伝いさんなんて、そんなものじゃないんですか?」

「いやあ、僕はお手伝いさんのいる生活とは無縁だから……ん? アレ?」


 門から玄関までの結構長いアプローチを、糸と並んで歩いているその時、向こうから小走りで駆け寄る友花さんの姿が見えた。

 

「四季さん、糸ちゃん。本日は、わざわざ足を運んで下さって、ありがとうございます」

「いえ、お招き頂きまして……」

 もごもごと語尾を誤魔化す僕に、友花さんが「なんだか四季さん、緊張してますか?」と悪戯そうな笑みを浮かべるものだから「女性の家に、ご挨拶に伺うって言えばそれはね?」と、冗談で返してみた。

 

 おや……何でしょう、この雰囲気は。

 

 友花さんは、またしても首の方まで真っ赤に染まり、見えない湯気まで立ち上っていそうだし、糸はといえば酷く冷たい空気を纏わりつかせ「馬鹿ですか?」って……聞こえたのは、気のせいですか?


「あ、あの……それから、ごめんなさい。折角いらして頂いたのに、お祖父さまはお加減が悪くて今日は無理そうなんです。ただ、猫は居るので良かったら……」

 もじもじとしながら、友花が何を言うのかと思えば、なるほどそのような理由なら仕方がない。


「それでは、お言葉に甘えて……くだんの猫は今どこにいるのかな?」


 それでしたらどうぞこちらへ、と少し安堵の表情を見せて笑う友花さんの案内で、玄関へと促される。

 そんな時、大人しくついてきた僕の背後で「だったら、今朝にでもそうと連絡頂けたら良かったのに」と糸が呟いたのが聞こえて、僕は思わず振り返り見てしまった。


「君が、そんなことを言うなんて珍しいね? 何か予定でもあったの?」

「……別に、ありませんけど。また来なくてはいけないんですよ? その時も会えなかったら? そうやって何度も……」

「仕方ないよ。でも流石にその時は連絡をくれるだろうと思うから」

「そうでしょうか」


 伏し目がちな糸の長い睫毛が、微かに揺れたような気がした。

「何か、変だね? 大丈夫?」

 僕のその言葉に俯いた糸の、長い髪のひとふさが、はらりと溢れ落ちる。

 自然と手が伸び、その髪に触れようとした時だった。


 ――それから、どうするの?


 頭の上から降る声に、はっと顔をあげる。

 次の瞬間、柔らかくしなやかな肢体が、影のように僕の足元に落ちた。

 と思う間もなくそれは、僕の足に身体を擦り付けるようにニャア、と小さく鳴く。


「あら、こんなところに。これがその猫の『みつる』です。四季さんのことが、好きなのかしら? ねぇ、みつる?」


 友花さんが抱き上げようと猫に近寄るも、するりと身体を躱す。

「近寄らせてもくれなくて……お祖父さまにしか、懐かないんです。だから四季さんは特別なのかも。喋るのを聞いたと言うのも実はお祖父さまで、私では、ないんです」


 だとしたら、僕が聞いたあの声は?


 猫は僕に向かって、ニャアと鳴くとまるでついて来いと言わんばかりに真っ直ぐに立てた尾を揺らした。


 

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