第5章 秋ひとつ目

猫と鯖雲 1



 「些細なことが、嬉しいのは何故でしょう?」

 

 糸の言葉に、どきりと胸が跳ねた。

 ……え?


 ソファにだらしなく寝そべり、読んでいた本から、ちらと覗くようにして見れば、手に持つ焼き菓子フィナンシェを愛しそうに、じっと見つめる糸の姿をがある。

 何も言わずにいて、良かった。

 なぜならすぐその後に「マスターが、焼いてくださったんです。お菓子作りが趣味なんですって」と微笑んだ糸の『嬉しい原因』が甘いモノを貰ったというだけのだと分かったからだ。


 ……趣味? いや……うん。

 それマスターの、仕事の一つだからね?


「てっきり、誰かと恋に落ちたのかと思ったよ」あはは。

 などと、ソファに起き上がりながら先ほど思わず言い淀んでしまった『何か』を、冗談めかして口にすれば良いのだろうけれど、それはもう、出来そうになかった。

 あの夏の日から僕と糸の間は、微妙に変化しつつあるのを感じずにはいられない。そして時々、こうして糸の言葉に振り回されている自分がいることを、嫌でも思い知らされていた。


「随分と秋めいてきましたよね。朝晩の空気が、冷んやりと感じるようになったと思いませんか?」


 そんなことを考えながら、ソファに座り直した僕に向き合う糸が話し始めたのは、時候の挨拶のようなものだったので、思わず姿勢を正してしまう。


「……うん。な、なに? なんだろう、その前置き? に何かの意図を感じるのは」

「え? 何かわたし、気に触るようなこと言いました?」


 僅かな沈黙の後、その白い歯でひと口、囓りとった焼き菓子を食べる糸を見れば特別な何かとかそのようなことは無さそうで、僕の勘違いだと分かるも何となく違和感を覚えてしまうのは何故だろう。


「それにしても、美味しそうに食べるね」


 ちょっとした悪戯心から糸の齧りかけの焼き菓子を指で摘まみ上げ、僕がそれをひと口に食べた後、ふっと笑って視線を糸の顔に戻したそこに、先ほどの違和感の正体を見つけてしまう。僕の悪ふざけに、怒ると思っていたその先にあったもの。

 ほんのりと頬染め、恥じらう糸。

 それを見た僕は、突如として強く意識する。今の僕の口の中、舌で転がし噛み締めているのは、糸の歯型のついた菓子だと。

 

 ……ああ。


 突然、腑に落ちた。

 違和感とは、何処にあったのかなんてそれは、考えるまでもない。互いの身のうちに巣食う毒からくるものだったのだと、愚かな僕は、ようやく気づいたのである。

 忘れようとしていた、忘れかけていた、きゅっと締め付けられるような甘い痛みを胸に、いつだって先に視線を逸らすのは僕だ。

 逃げ出すように立ち上がり「僕もコーヒー淹れて貰ってこようかな」と言いながら扉のある方へ目をやると、事務所の入り口で佇んでいる女性がいた。

 

「あの……北村ふしぎさん、ですか?」


 ち、違うよ。あれッ? ……違うかな?

 それにしても……なんかデジャヴを感じるのは、えっと……気のせいじゃないよね?

 固い表情で、おどおどと事務所内を覗き込んでいたその人は、糸の姿を見て少し表情を緩めた後、僕に向き直る。


「こちらが、不思議な話を調べて下さる事務所で合っていますよね?」

 上目遣いに僕を見て顔を赤らめているこの女性は、どうやら依頼人らしい。

 しかし……不思議な話を調べる? いやいや、不思議な話を聞くとは書いてあるけど、調べる? そんな事務所だったかな。


「探偵さんですよね?」

「あ、そうか。それだ! いや、すみません。……こっちのことです。ハハハ。えーっと僕は、こういう者です」

 ズボンの後ろポケットから、皺くちゃの名刺を取り出して彼女に渡す。


「北村……四季シキさん? 素敵な名前ですね。私、宮藤くどう友花ゆかと言います」よろしくお願いします。


 小さく頭を下げて笑顔を見せる。

 可愛らしい子だった。

 いや、女性か。聞けば糸より少し上……大学一年生だそうで、僕の案内するソファに腰を下ろす前に糸をちらりと見た。


「こちらは……」

「あ、えっと僕の助手の……」

高桜たかざくらいとです」


 なんとなく糸の無表情が、いつになく無表情に見えた。


「何か緊張します。まさか北村さんが、こんなに若くてカッコいいなんて……どうしよう。上手く話せるかな」

 僕をちらちらと見ながら、糸に向かって微笑んでそう言えば「それを言えるくらいなら、大丈夫だと思います」と、素っ気ない返答が返される。


「……制服ってことは、高校生? よね? ご親戚か何か、かな? 美形の家系なんですね」

 なんとなく漂っている不穏な空気の出どころは、ひとつしかない。

 再び口を開こうとした糸が、どんな言葉も放つ前に「そんなことより僕は、友花さんの話が聞きたいな」と依頼人と目を合わせ、じっと見つめた後ふわりと笑顔を向けた。

 

 何か狡いです。そんなことも出来るなんて知りませんでした、と糸が隣で誰に言うでもなく呟いていたがそれを無視をしたまま、友花さんに向けた視線を、動かすことはしない。


 ……狡い?

 僕がどんなに狡くなれるのか、それを糸が知ったらどうなるだろう。


 僕に見つめられ、首まで真っ赤になった友花さんは俯き、自分の手に視線を落としたまま彼女が言うには――。


「あの……ウチの猫、どうも人の言葉が話せるようなんです」


 

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