人魚姫とかき氷 4



 瑠璃はそう言った後、この部屋の押し入れを開けて見せた。上段の奥の壁に寄せた不自然なベニヤ板がある。


「いつもここに隠してあるの普段は使わない座布団が仕舞ってあるから。そしたら奥は見えないでしょ? まあ、見えたところで古い押し入れだから、誰も気にしないと思う。私もお祖父ちゃんに言われるまで気にもとめてなかった。母は民宿の手伝いはしないから、知らないと思う。絵だって見たこともなければ、存在も知らない筈。私がここを手伝うようになったのは、お祖父ちゃんが倒れたのがきっかけだから……」


 瑠璃が苦労して取り出したベニヤ板の奥から、幾重にも薄葉紙に包まれ紐で括った額もケースにも入れられていない木製のパネルに貼り付けられただけのそれは、くだんの絵が入っているのだろう。大きさからすると絵のサイズ的には、二十号といったところか。

 それを手にした瑠璃が言った。


「この絵、一度だけ私も見たわ。驚くほど若い頃のお祖母ちゃんに似ているの。そして不思議なのは、それだけじゃなくてね? お祖父ちゃんは絵が動いてるって言うの。こっちを……正面を向いていたはずの人魚の顔が、後ろを……背中にしている海の方へとゆっくりと振り向こうとしているんだって。多分、それもホントなんだわ。だって私が見たときは、顔は少し横を向いていた。それから……それからね? まだあるの。この部屋に泊まった人が必ず見る夢があるのよ」


「……人魚の、夢」


 僕の言葉に、瑠璃はこくりと頷いた。

 この部屋に泊まった人は、人魚の夢を見るのだというのだ。




「じゃあ、よろしくお願いしますね〜」


 明るくそう言って手を振り車に乗り込んだ瑠璃は、絵を手放すことが出来たからなのか、話を聞いて貰ったからなのか、すっきりした顔で元来た道を戻って行った。

 絵を預かることになった僕と糸は、瑠璃の運転で高速バスの乗り場まで送ってもらったのである。


「すっかり遅くなってしまったね」


 見上げれば空は夕陽が落ちた後で、雲は複雑な朱と金が入り混じり合う色に輝き、夜の始まりの中に浮かんでいる。

 その恐ろしいまでの美しさに、しばし見惚れた。


「……電車じゃなくて、悪いね」だけど行きは電車だったし、帰りはバスでも良いよね?

 バスのトランクルームに、瑠璃が用意していたキャンバスバックに入った絵を預けながら思わず弁解めいた口調になるのは、なぜだろう。そもそも勝手について来たのは糸だというのに。

 僕と同じように、トランクルームを覗き込むようにしてその様子を見ていた糸が、片方の手で汗で貼りつく首筋の髪をかきあげながら、ちらと僕を見て笑った。


「気を使わなくて大丈夫ですよ。別にわたし乗り鉄という訳じゃないですから。ただ長距離の移動で車は……一度乗ってしまうと逃げ場がないのが嫌なだけです」


「に、逃げ場って……」


「あ、もちろんシキさんのことじゃなくて……ホラ、色々とありますよね?」

 糸の視線は、トランクルームの隅の暗がりに吸い寄せられていた。


 聞くに聞けない御伽噺が、ここにも一つありそうで、僕は曖昧な笑顔を返事の変わりにする。

 始発のバス停で良かった。

 海岸近くにもバス停があったのだが、瑠璃がもう一つの路線の方が良いと、わざわざこの場所まで送ってくれた理由が分かる。

 続々と乗り込む人の波を眺めていると、空気まで薄くなりそうだと溜息を吐く。

 僕と糸は肩の触れる隣り合う席に並ぶ。

 混雑する車内から暮れゆく窓の外を眺める糸の白く透き通る首筋から仄かに香る汗の甘い匂いに、なるほどこれでは逃げ場はないと、違う意味で改めて思ったのであった。


 こんな時は、寝てしまうに限る。

 隣りに座る糸もやがて目を閉じたのを見た僕は、心地よい振動と陽に晒された疲れから、あっという間に眠りの中へ引き摺り込まれて……。



 夢をみたのだ――。


 ごうごうと風の唸りに似た、潮騒の音が聞こえる。

 ここは何処だろう。

 立ち込める靄が、視界を邪魔していた。

 深い緑色の鬱蒼とした森のようなものが向こうに見える。

 あれは多分、松の木の防風林だ。

 その先は、きっと海に違いない。

 僕の前を歩く人がいることに気づいた。


 海に近づいては、いけないのに。

 あの海には、人魚がいるから。


 見知らぬ坂道を僕より少し先に下るあの後ろ姿は……糸、だ。

 坂道の先には海がある。

 行っては、ダメだ。

 靄の中、今にも消えてしまいそうな糸を引き留めるため手を伸ばして良いものか、その一瞬の躊躇が僕と糸を切り離す。

 糸が、見えなくなってしまう。


 ああ、まただ。

 


 僕は、また同じ……。

 


「……さん、シキさん?」

 

 糸に揺り動かされて、僕は目を開ける。

 すぐ目の前に、覗き込む糸の顔と長く綺麗な髪があった。

 手を伸ばし髪に触れる。

 その髪を一房掬い上げ唇を寄せ「ああ、良かった……また僕が……」そうして視線を上げた先に、糸の……。


「……ごめん。寝ぼけた」

 ぱっと髪から手を離すと、それは糸の頬に触れて流れた。

 

「着きましたよ。……先に降りますね」


 そう言われて見た窓の外は、あの海からは離れた見慣れた街だった。

 バスを降りる糸の後ろ姿を目で追いながら、僕は髪を掬い上げていた手をそっと握りしめる。

 するりと手から零れ落ちる髪のように、僕の掌に載せるものが大きくなり過ぎないことを祈りつつ、糸の柔らかく弧を描いた唇にふと心が締め付けられた。


 

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