人魚姫とかき氷 3



 ――いまより少し昔むかしのことでした。


 強い風が吹く冬の冷たい鈍色に染まる海の浜辺を、ふらりと歩く男がおりました。

 この何日かの時化しけで漁に出ることの出来ない男が、燻る煙草の煙り越しに荒れる海をひとしきり眺め、まだ先は長そうだと諦めるように背を向けようとしたときのことです。

 砂浜に、ひとりの女が倒れていることに気がつきました。


 浜に打ち上げられた死体でしょうか。

 いえ、違います。


 ただ、静かに砂にまみれたその女は、小さな足に履物はおろか、身につける着物さえ何ひとつなく、だらりと砂の上へ横たわるその白い蝋のような身体に、真っ黒な長いながい髪の毛が絡みつくそのさまはまるで、海の中から陸に現れた幽霊でなければ、御伽噺の娘のようでした。

 恐るおそる傍へ寄った男は屈み込み、まだ息があるかどうか確かめようと天に向かってぽかりと開いた女の口に手を翳そうとして、ふと気づきます。


 ……舌が、ない。


 ええ、そうです。

 女の舌は切り取られておりました。

 あの御伽噺の美しい声と引き換えに陸に上がった娘のように、真ん中の辺りから、ぶつりと切られた柘榴のような肉の断面が暗い穴の中に覗きます。

 小さな蟹が、その女の口からカサカサと這い出てきました。

 風がひときわ強く、びょおと鳴きます。

 女の身体のあちこちに、張り付く細かな砂が鱗に見えました。

 助からないと、男は思い立ち上がりかけた……そのときです。

 男の目の前で、女の身体が微かに動いたのでした。

 見間違いではないのか。

 じっと見つめる男の前で、女はゆっくりと瞼をひらきます。

 そのまだ何も映さない目はまるで、晴れた日の凪いだ海のようでした。

 女の目から涙がつうと流れます。

 男は助けを求め、けつまろびつ駆け出しました。

 男の耳に、誰かの悲鳴が聞こえます。

 それは知らずのうちに声を上げていた、自身の叫び声でした。



 ……冷房クーラーがごうん、と音を立てた。


 僕たちは不意に鈍色の世界から切り離され、今いるところが分からなくなる。

 つと窓の外に目をやった。

 紺碧の空の下、その夏の陽射しを跳ね返し、きらきらと瞬く海は先程と少しも変わらずに、そこにある。

 

「……それが、私のお祖母ちゃん」

 

 保護された瑠璃の祖母は、何も覚えていなかった。何処から来たのか、何故、舌が切り取られているのか。

 自分の名前も、何もかも。


「すんごい美人でさー。助けたお祖父ちゃんは、お見舞いに通ううちに恋に落ちちゃったわけよ」

 そう言って、一枚のモノクロ写真を尻のポケットから取り出して見せてくれた。

 そこに映るのは浜辺の岩の上で横座りにこちらを見る、儚げな女性。

 すっとした鼻筋、大きな切長の瞳。

 白いノースリーブから見える滑らかな肩に、その清廉なワンピース姿の女性の長い髪は後ろでひとつに束ねられ、それを胸の方に垂らしている。

 口元に浮かぶ柔らかな微笑みが、目の奥に浮かぶ愛しげな色が、カメラを構える人に対する彼女の気持ちを表していた。

 

「……綺麗な人ですね」

「でしょう?」

 ふふっと瑠璃が笑う。


「まあ、そんな訳で、年齢とかもホントのとこは何も、分からないんだな〜」


「言葉は最初から通じたんですか?」

 僕は写真を手に取らせて貰う。

 微笑みを浮かべる女性、色のない古い写真のその入道雲の後ろに、見えない筈の真っ青な空が見えたような気がした。


「うーん? そうなんじゃないの? その辺は何とも言ってなかったし。あ、お祖父ちゃんはもう亡くなってるんだわ。もっと色々、聞いとけば良かったと思うけど……」聞くに聞けなくて。返された写真を受け取った瑠璃は、そこに目を落としたまま、寂しそうに笑った。


「お祖父ちゃんが亡くなる少し前に、お祖母ちゃんとの出会いを、ぽつぽつと私に話してくれるようになったの。小さな頃、二人で砂浜に座って御伽噺を聞かせてくれた時みたいに……真っ白な病室で聞くそれはまるで、嘘のようで、本当のようで。だけど信じきれない私は、お祖父ちゃんの作った御伽噺だったのかもしれないって思ってた」

 を目にするまでは。



 ――その男と女の間に、一人娘が産まれてしばらく経ったある日のこと。

 何処からか板のようなものが届きました。

 中身を確かめることもなく気味の悪いものと嫌がる家の者とは違って、それに好奇心を持った男はひとり夜中に、こっそりと覗いてみることにしたのです。

 棄てるのは、いつだって出来る。

 いったいこれは何だろう。

 逸る気持でもって、厚紙で丁寧に包まれたその紐を解いていた男の手は途中でぴたりと止まり、震えだしました。

 現れたのは一枚の絵。

 ああ、男は頭を抱えます。


 その絵には、人魚が描かれておりました。



「……絵が、あるって言うの。突然、どこからともなく送られて来た絵が。それをお祖母ちゃんから隠してあるんだって。それもまたお祖父ちゃんの嘘だと思ってた。御伽噺に似せた昔話を本物のように思わせるための」



 ――やはりあの女は、人魚だったのだ。


 男はその美しい絵を前に、崩れるように泣き出しました。

 これは女が人魚であったと知る誰かが、送ってきたに違いありません。

 この絵を見たら女は自身のことを、本来の愛しい男のことを思い出し、海の泡と消えてしまうでしょう。

 男はそれを思うと耐えられなかった。

 女には、決して見せられない。

 何度も棄てようと思いますが、しかし男にはそれが出来ませんでした。



「……あったの。こっそりと教えて貰った場所に、その絵が。それを見たとき初めて、お祖父ちゃんの話したことは嘘じゃないって分かったのよ」


 そこに描かれた美しい人魚は、見覚えのある顔をしていたから……。


 


 


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