人魚姫とかき氷 5



 「良いなぁ、海か……だから少し赤くなってるんだね? 日焼けしても、肌が白いと痛々しいね。あ、やっぱり痛いんだね? そうなんだ……しかし、せっかく行ったんだったら、二人とも泳いだりしたら良かったのに。若いんだから楽しまなくちゃ」


 喫茶店の扉を開けると、アイスコーヒーを糸の目の前に置きながらマスターが一人、べらべらと喋っているのが聞こえた。

 涼しい店内は、人もまばらである。

 後から来た僕が、糸の隣りにさりげなくスツールひとつ分空けて座ったのを目敏く見つけたマスターが、澄ました顔とは裏腹に、目の奥でもって『ね、ね、それとも二人、やっぱり何かあったの? でしょう?』と問うているのを僕だけが知っている。


「……何もないですよ」厳密に言えば、寝ぼけただけだ。


「ふーん?」

 それでも納得していないマスターに、僕はコーヒーを淹れてくれるよう頼んだ。


「家まで送らなくて、大丈夫だった?」


「あそこまで送って貰ったら、ほぼ玄関前と変わりませんよ?」かえって気を使わせてしまいましたか?


 あの後、家まで送ろうと申し出た僕に、近くまでで良いと言った糸だったのだが、心配のあまり門の中に入るのを、こっそりと遠くから見ていたことに、どうやら気づいていたようだった。


「や、ごめん……いつもより遅かったし。世の中は物騒だし」すぐ傍だったし、とか何とか言ってみたものの改めて考えてみると、はたから見たらそれじゃあストーカーのようである。

 オイオイ、大丈夫かな。

 良かったよ職質とかされなくて。

 そんな僕を笑顔で見ているということは、迷惑ではなかったのだろう……多分。そんな糸が、せめてもの救いかもしれない。


 あははと力なく笑う僕に、耳を大きくしたマスターが下がり眉をしてロートを布で磨きながら、やれやれといった様子で首を左右に振っているのは、見なかったことにしよう。


「ところで糸ちゃんは、どうしてこの街に来ることになったんだい? わざわざ引っ越して来たんでしょ?」

 あまりに情け無い僕の姿を見兼ねたのだろう。助けに入ったマスターは、僕のコーヒーの準備をする手を休めることなく尋ねた。


「ええ。研究職をしている両親が、いまは二人とも海外にいるんです。ちょうど高校進学のタイミングで一緒に行く選択もあったのですが、日本こっちに残りたかったので……だからわたし、祖母の家から通える高校を選んで、この街に越してくることにしたんです」


 なるほど、それで母親の着ていたセーラー服を見つけたのか。と、僕とマスターの心の声が重なって聞こえたのは、決して気のせいではない。

 

 アイスコーヒーのグラスに手をかけた糸は、ストローでからからと氷を回し涼しげな音を立てた。


「……本当だ。ちょっと赤い、ね」


 僕の手を伸ばせば触れそうなほど近くにある糸の、半袖から覗くほっそりとした白い肌は赤みを帯び、それは触らずとも熱を持っているのだろうと見ただけでも分かる。

 冷たいカウンターの上に載せられた糸のその肌に、指を伸ばしそうになった自分に驚き、そのことでひりひりと胸が痛む。

 

「日焼け止めを塗っていたのに、やっぱり駄目でしたね。痛いんですけど、それだけじゃなくて痒くなってしまうので、困るんです」水膨れになると分かっていてもつい、掻いてしまうから。

 その肌を掌で擦りながら、糸が笑った。


「それはもう、火傷だね」

 マスターが優しく笑う。


 ……そう、火傷だ。

 ひりひりと焼けつくような痛みを伴い、やがては、もどかしいほどの疼くような掻痒感をもたらす。

 どんなに耐えたところで、いずれ傷つくと分かっていても、触れずにはいられない。


「どうしました?」

 糸が、きょとんとした目をして僕を覗き込むように見ていた。


「……ちょっと考えごと、かな」

「シキくんは、大事にしすぎちゃうんだな。色々とね。だから以前も……あっ、とこれはナイな。ごめんね?」

 マスターはコーヒーを僕に差し出しながら、うっかりしてたよと片目を瞑って、謝る。どこまでこの人は分かって言っているのだろう。それに、どこまでが本気なのかが分からなくて困る。

 てへぺろって教えて貰ったんだけど、今の感じで使い方合ってる? とマスターの、小さく舌を出して糸に尋ねるその姿に、また、真顔でその相談を受ける糸に、僕は思わず苦笑いを浮かべてしまうのだった。

 


「……じゃあ、開ける、よ?」


 事務所に上がった僕と糸は、テーブルに載せられた絵を挟み向かい合っていた。

 なんだか緊張するのは何故だろう。

 手に鋏を握りしめる僕の前には、マスターから差し入れの缶に入ったチョコレートを大事そうに抱えた糸がいる。

 確かにそのトリュフチョコレートは美味しいけど、抱きしめるほどじゃないよね?

 僕の視線を受けて、正しい『てへぺろ』をしてみせた糸に、思わず笑い声を上げてしまった。

 

 こほん、と空咳をして仕切り直す。

 

 絵は何重にも固く紐で括られていた。

 まるで閉じ込めておきたいというような、その固く結ばれた紐を鋏で切る。

 ぱちん、という音が静かな部屋に響く。

 それから幾重にも重なる薄葉紙を止めるテープを、一枚ずつ丁寧に剥がした。


 知らずに詰めていた息を、ふうっと吐き出して二人で顔を見合わせる。

 薄葉紙を退かしていく。


 思わず喉が鳴った。

 

「これは……まぎれもなく」


 二人で顔を見合わせ、同時に放ったひと言は……。


「人魚、だね」

恋文ラブレターですね」


 ……だった。


 

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