6 ロザリーフ大聖堂の深更を

 ロザリーフ大聖堂の深更を告げる鐘の音が響いた。

 メイラーは夜闇に紛れて出ていったアーミテイジの帰りを気もそぞろに待った。アイシャに連絡するべきだったかもしれない。いや、しかし夜は吸血鬼の活動時間だ。モンスター事典にもあったように、ここは迂闊な行動を控えるべきだろう。

 寝台脇の小卓に置いたティーカップを取り、メイラーはとっくに冷めた苦い香草茶の残りを飲み干す。そしてふたたび窓の暗がりへ目を向けたとき、彼の心臓はびくんと跳ねあがった。

 正面の集合住宅と、隣の建物に挟まれた細い隙間。そこで小さく黄色い光が揺れていた。

 メイラーは小卓にあった暗視のスクロールを手に取り、燭台の蝋燭へ息を吹きかけて火を消した。魔術スクロールを結ってある紐を手探りで解き、急いで拡げると神妙な顔つきで念を送る。スクロールの使い方は事前に調べておいた。すると、まもなくもせずに暗視の呪文の効果が表れた。メイラーの真っ暗だった視界が徐々に明るくなってくる。窓の外へ首を回すと、昼間ほどではないが中庭を十分に見渡せた。

 中庭ではふたりが煉瓦敷き通路を並んで歩いている。やがてメイラーの窓と最も近くなる場所まできた。角灯を持ち先をゆくアーミテイジは、羽根飾りのついたフェルト帽をキザっぽく斜めに傾がせて頭に乗せていた。その細面には、たぶん薄ら笑いが浮かんでいるにちがいない。あとにつづく女性は背中が丸見えになる扇情的なドレスをだらしなく着崩し、あきらかに夜の街角に立っているかの雰囲気だった。

 メイラーはふと思い出し、ふたりの足下に注目した。そうして、やはり自分の推測がまちがいでなかったと知った。後ろを歩いている女には影があるのに、アーミテイジにはそれがない。夜でも月明かりで地面に映るはずの薄い影が、どこにも見えないのだ。まぎれもなく吸血鬼が持つ特徴のひとつである。

 息を殺して、ふたりがアーミテイジの部屋がある建物のなかへ入ったのを見届けた。

 今夜こそ、あそこでなにが行われているのか確かめてやる。メイラーは意を決し、アイシャから渡された使い魔のスクロールを迷いなく開いた。丸まった羊皮紙を両手でのばし、そこに描かれている魔術陣を睨んで強く念じる。そうすることが符丁となり、スクロールに封じ込められた呪文は発動するのだ。しばらくするとスクロールの魔術陣から、メイラーの腿の上になにかがぽふんと転がり落ちた。真っ白な毛玉。暗中に輝くガラス玉がふたつ。それは、琥珀の瞳をした白猫だった。

「なんだよ、よりにもよって……」

 思わず小声でそう漏らすメイラー。

 使い魔のスクロールは、使用者の生命をほんの少しと、魔術の源であるエーテルを組み合わせて下僕となる小動物を生じさせる。しかし術が成るまで、どんな生き物が出てくるかはわからないのだ。もしかしたら、メイラーの意識のどこかに白猫の印象が強く残っていたのかもしれない。

「くそっ、まあなんでもいい。おいおまえ、頼んだぞ」

 メイラーは白猫の両脇に手を差し入れ、抱きあげた。そして二階の窓から外に腕を出し、猫を地上まで降ろそうとする。真下は花壇でやわらかい土が敷いてある。それに猫は身軽ゆえ大丈夫だろうと思った。が、当の使い魔はメイラーの手荒な扱いが意に沿わないようだ。木製の窓枠に前足の爪を引っかけ、頑として抵抗する。

「はやくいけよ。おまえ、おれの使い魔なんだろ?」

 焦れたメイラーは、やや強引に猫を突き落とした。白猫は赤と黄色の百日草が繁っている花壇へ落下して、ふぎゃっという鳴き声が聞こえた。

 さすがにちょっと心が痛んだものの、どうやら無事だったようである。花壇に植えられた草花の合間から白猫が出てきて、メイラーは胸を撫でおろした。それから彼は目を閉じて精神を集中させる。そうすれば使い魔と知覚を共有できるらしいが、本当だろうか。

 一瞬、ふわりと身体が落下したかの、妙な感覚を味わった。唐突に視界が開ける。すると目を閉じているはずのメイラーは、自分が地面すれすれの高さで中庭を見ているのに気づいた。周囲はわずかにぼんやりとして、色がくすんで薄い。なるほど、これが猫の見ている世界なのか。

 感心している場合ではない。本来の目的を思い出したメイラーは、急いで使い魔をアーミテイジの部屋へと向かわせようとした。しかし、その前に使い魔は勝手にそちらへ歩き出した。いまメイラーと猫は、一心同体となっているのだ。

 白猫=メイラーはすばやく中庭を駆け抜け建物内に入った。まず短い通路があり、ゆく手は左へ曲がっている。角で立ち止まり、首だけを出して先を見る。そちらは建物の表側で、各部屋の戸口が並んでいた。かなり無計画に建てられたのだろうか、隣の建物の壁がすぐ近くに迫っている。裏路地という言葉がぴったりな様子で、狭いそこにはゴミが散乱していた。水はけがわるく汚水の臭いもするため、そのせいでアーミテイジはいつも中庭を通るのだろう。

 アーミテイジの部屋は一階のいちばん奥だ。その扉の前まで、慎重に歩いた。静かだ。どこにも人の気配はなかった。扉の前で耳をそばだてたが、なにも聞こえない。しかし、いるのは確実なのだ。正面の窓は鎧戸が閉まっていたが、そこの隙間から細い光が漏れている。

 メイラーはしばし考えた。どうにかしてなかへ入るか、奴の凶行を止める方法はないものか。すると、隣の部屋の戸口脇に陶磁器が棄てられているのが目に入った。欠けた椀や皿、首の長い壺などが積んである。近寄り、いちばん上に乗っている壺を前脚で小突いて押した。石畳に転がり落ちた壺の首が折れ、粉々に割れはしなかったが、思惑どおり大きな音をあたりに響かせることができた。

 白猫を陶磁器の陰に潜ませると、アーミテイジの部屋のほうへ向き直り、反応を待った。足音がして、まもなく扉が開く。全部ではなく、少しだけ。その隙間からは首だけが出てきた。さすがに用心深い。

 暗中に白い顔が浮かびあがり、メイラーは初めてアーミテイジの素顔を拝んだ。脂ぎって乱れた黒髪、不健康に痩せてこけた頬。蒼白の面貌はまるで死に瀕した重病人を思わせる。だが目だけは異様に精気が漲り、やけにぎらついていた。唇は薄く、わずかに開いた隙間に人間とは思えない太い犬歯があった。さらに片方の口の端からは、細く赤い筋が顎の先まで伝っている。

 アーミテイジは首を左右にめぐらせるとあたりの様子を探った。白猫にも気づいたが、特に興味は示さなかった。ちらりと見ただけで、彼はすぐに扉を閉めて部屋のなかへ引っ込んだ。

 くそ、女は助けられなかったか──

 落胆したメイラーはふたたびアーミテイジの部屋の前まで移動した。そうして次なる手を考えて逡巡しているうち、いきなり視界がぐんと上へと浮きあがった。誰かが使い魔の襟首を摑み、持ちあげたのだ。身をよじらせて首を後ろへ回すと、すぐ間近にアーミテイジの顔。あの部屋には別な出口でもあったのか、それとも裏窓から出て建物の横を回ってきたのか。

 アーミテイジがこちらを覗き込むようにして、にやりと笑った。それが、メイラーが使い魔の目を通して見たものの最後だった。

 メイラーは寝台の上で我に返った。胸に疼痛を感じ、思わず手で押さえる。なにか心臓に強い衝撃でも受けたようだ。早鐘のように鼓動をくり返している。おそらく使い魔を失ったせいだ。にしても、奴はなぜ猫を殺したのだ、まさかこちらに気づいたのか。

 戸惑うメイラーはふと、まとまらない思案を中断した。妙な音が聞こえる。かちかちと、なにか硬いものどうしが軽く触れあうような音が。

 不審な音がするのは窓の外からだった。どんどん近づいてくる。だしぬけに、すぐ横にあった窓の下枠へ、外から何者かの手がかけられた。やけに長い指だった。その指先には獣のような鉤爪。そしてメイラーが窓辺へ顔を向けたと同時に、何者かがぬうっと、彼に覆い被さるようにして現れた。

「おまえか、見ていたのは」

 アーミテイジだった。どうやら療養所の外壁を伝い、二階まで這いあがってきたようだ。

 突然に現れた吸血鬼は窓枠に両足を乗せると、そこで背を丸めてしゃがみ込んだ。体重をかけられた窓の木枠が、みしりと軋む。

 メイラーの耳に、ごくりと自分が固唾をのむ音が聞こえた。

「どうして……おれだとわかった?」

「しくじったな。知らんのか、使い魔とその主人は、臍からのびる生命の緒で繋がっている。それを辿ってきた。おまえたち人間には見えまい。妖精の目か、われら闇の住人でないとな」

 メイラーはそれを聞いて歯がみした。くそ、そんなこと、アイシャはひと言も教えてくれなかったぞ。

「クク、夜は吸血鬼の時間だ。人間ならば、おとなしく眠っていればよいものを」

「おれの血を吸うのか?」

「いいや。男の血は口に合わん」

「おまえはもう終わりだ。憲兵隊と神聖騎士団がすでに動いている。逃げられんぞ」

「なら、さっさとおまえをくびり殺して姿をくらませるとしよう。どこかほかの街で、おれはまた女の血をたのしむ」

 メイラーは死を覚悟した。だめだ、足を動かせないこの状況では逃げられない。

 アーミテイジがゆっくりと手をのばす。鉤爪が迫るのを、メイラーは見ているしかなかった。

「そこまでだ!」

 メイラーの個室の扉が勢いよく開いたのは、アーミテイジの手が彼の首へ触れる寸前だった。

「これでもくらえーっ!」

 室内へ駆け込んできた誰かが裏返った声で叫ぶと、メイラーとアーミテイジへ向けて大量ななにかを投げつけた。

 途端、アーミテイジが金切り声を発して窓辺から外へと跳び退る。

 メイラーは自分の身体にもぽこぽことぶつかり、寝台の上にばらまかれたものを拾いあげた。硬い感触と、鼻につく匂い。手の内にすっぽり収まるくらいの大きさをしたそれは、ニンニクだ。

「やったか!?」

 そう言ってメイラーの寝台へ身を乗り出してきたのは、従騎士のウォレスである。自分の頭に十字架をくくりつけた彼は、ニンニクをどっさり積んだ枝編み籠を小脇に抱えていた。

 中庭のほうで闇を切り裂くような断末魔が響いた。見ると、地面に倒れたアーミテイジに数人の憲兵隊が槍を突き立て、とどめを刺すところだった。傍らには石弓を手にしたアイシャの姿もあった。吸血鬼は通常の武器では殺せないが、憲兵たちの持つ武器は乳白色の光を帯び輝いている。たぶんアイシャにより祝福され、神聖属性が付与されているのだ。それによって突き殺されたアーミテイジは、まもなく灰となって完全に息絶えた。

 そして、夜が明けた──

 中庭には多くの憲兵が押し寄せ、アーミテイジが住んでいた建物を取り囲んでいた。周囲の住民たちもこれはなんの騒ぎかと、各々の窓から顔を覗かせている。

 白んだ空の下、メイラーの個室から中庭の様子を眺めながらアイシャが言った。

「いま、あの部屋の地下室を調べているところだ。床が壊されていて、建物が建っている真下の地下空洞と繋げてあったんだ。女の死体はそこへ放り込んでいたようだな」

 それを聞いてメイラーはぎょっとなる。

「ちょっと待てよ、アーミテイジは六年くらい前からあの部屋に住んでいたはずだ。となると……」

「ああ。どれくらいの被害者がいるか、考えただけでもぞっとするな」

 とアイシャ。彼女のそばにいたウォレスが、ぶるっと身を震わせてうめいた。血を吸われて干からびた死体が、地下空洞で山積みになっているのを想像してしまったのだろう。彼はまだ頭に十字架をつけたまま、ニンニクが山盛りな籠を抱えている。

「とはいえメイラー卿──人知れず、長きに渡りラクスフェルドで不埒を働いていた吸血鬼を討伐となれば、これはお手柄ですよ!」

「手柄? おれはなにもしていないぞ」

「いやいや、これぞ怪我の功名というやつでしょう。きっとあなたは、そういった星のもとに生まれているのですよ」

 ウォレスは、なんだかやけにメイラーを持ちあげる。どうやら上役をおざなりに扱えば、えらい目に遭うと身を以て知ったのだろう。ひとつ世渡りを学んだこいつは、たぶん出世する。

 そこでふとメイラーは、昨夜の騒動で不思議に思ったことを、ふたりに訊ねた。

「しかしおまえたち、どうしておれがアーミテイジに襲われているとわかったんだ?」

 その問いにはアイシャが答えた。

「あそこの窓を見てみろ」

 言って、アイシャはメイラーの部屋から見て左手にある建物の窓を指し示した。

「あの部屋にはつい先頃、引っ越してきたばかりの住人がいてな。重度の不眠症だそうだ。昨夜そいつが、わたしとウォレスが憲兵隊本部でアーミテイジのことを調べていたところへ、通報にきた。近所に毎夜毎夜、覗きをやっているおかしな奴がいて、それが窓から猫を突き落としたとな。わかるだろう、おまえのことだよ」

 愕然となるメイラー。なんてこった。他人の生活を見張っていた自分も、また誰かに見られていたということか。

 いろいろあってか、どっと疲れがきた。メイラーは枕に頭を乗せると、ゆっくり目を閉じた。

「……日が昇ったら眠くなってきた。誰でもいい、夜がきたら起こしてくれ」

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Windows Have Eyes 天川降雪 @takapp210130

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