2 「割といい部屋じゃないですか」
「割といい部屋じゃないですか」
ウォレスが窓辺から身を乗り出してそう言った。
「どこがだ。景色がまるで見えない。見えるのは他人の家の窓と、中庭だけだぞ」
とメイラー。質素な羊毛の貫頭衣を着たメイラーは、気の抜けた様子で寝台で横になっていた。彼の右足には膝から下に添え木があてられ、巻軸帯でしっかり固定されている。
いまふたりがいるのはラクスフェルドにある王立病院の療養所だった。その二階の狭い個室から見えるものといえば、さきほどメイラーが言ったとおり四方を建造物に囲まれた中庭くらいしかない。近所は背の高い集合住宅が多かった。よってその中庭は、建物が犇めくなかにぽっかりと空いた不自然な空間だ。
「で、いつごろ治るんです?」
窓から離れ、寝台の横まできたウォレスがメイラーの足を見ながら訊いた。
「医者の話では、骨がくっつくまでにひと月。元どおり歩けるようになるのに、もうひと月かかるそうだ」
「へえ、長期休暇ですね。うらやましいなあ」
「おまえ、他人事だと思って……」
暢気な盾持ちに呆れ、メイラーはため息をひとつ。
いったい、どうしてこうなったのやら。そもそも行方不明となった飼い猫の捜索などが騎士団の仕事だろうか。貴族だか有力議員だか知らないが、そんな雑用を国王騎士団へ持ち込むことからしておかしいのだ。ウォレスはラクスフェルドが平和な証だなどと言ったが、それで足の骨を折るとは割に合わない。
メイラーは数日前、オーリア国王騎士団の駐屯地へ訪ねてきた、いかにも放蕩貴族といった印象の人物を思い浮かべた。
「あの貴族の奥方、なにか言っていたか?」
「ええ、まあ月並みな感謝の言葉を。あとクリスピン団長が、ゆっくり休めとも」
「それだけ?」
「そりゃそうでしょう。迷い猫を捕まえたくらいで報償は出ませんよ」
ますます割に合わない。メイラーは目を伏せ、もういちど深々とため息をついた。
あの白猫、仔猫と呼ぶには大きかったが、まだ好奇心が旺盛で外の世界を知りたくて主人のもとから逃げ出したのだろう。しかし、それももう二度と叶うまい。あとの一生は貴族の屋敷で厳重に閉じ込められ、飼い殺しとされるにちがいない。
囚われの身──まるでいまの自分もそうじゃないかと思いつき、メイラーの気分は沈んだ。ぼんやりと、すぐ横手の窓のほうへ首をめぐらせる。すると療養所とは中庭を挟んだ反対側にある建物の窓が目についた。言い合いをしている男女。夫婦だろうか。遠くて声までは聞こえなかった。少し興味を惹かれたが、あまりじろじろ見ていいものではない。メイラーは療養所の右にある建物へと目を転じた。その三階建てのいちばん上の階では、窓辺の下側に棚受けを設置し、花鉢を並べた部屋があった。老婆が水差しで花に水を与えている。その下、けっこうな広さの中庭ではメイラーのと似た貫頭衣を着た者が散歩をしていた。療養所の患者だろう。ほかに見えるのは、花壇の隅に腰掛けた老人。杖を携える彼は、朝から何時間もずっとおなじ場所に、おなじ姿勢で座り込んでいた。
「じゃあ、ぼくはそろそろ帰りますね」
ウォレスが言った。彼は今日、メイラーの着替えや療養生活に必要な品をここへ届けにきたのだった。
「いずれまたきますよ。暇なときに」
若い従騎士はまだ頼りなく、ひと言多い。だが、いなくなればそれはそれでさみしい。
ウォレスが個室から去ると、途端に静かになった。ひとりきりとなり、寝台に横たわるメイラーは、天井を見あげてぽつりとつぶやく。
「寝るか……」
数時間ほど優雅にふて寝した。彼を起こしたのは夕食を運んできた中年女性の賄い婦だった。療養所の食事は粗食で、味気なかった。しばらくするとまたおなじ賄い婦が食器を下げにきた。彼女はついでに窓の鎧戸を閉めようとしたが、メイラーはそのままにしてくれと頼んだ。こんな狭い部屋で窓も閉め切られては、息が詰まって頭がどうにかなりそうだった。
外はとうに太陽が沈んで、窓の外は暗い。メイラーはふと、下の中庭に人の気配を感じた。中庭はそこを囲む建物の窓から漏れる灯りで、ほかの場所よりも明るかった。男がひとり、中庭を歩いているのにメイラーは気づいた。黒い外套を身にまとった彼は薄闇のなかをしっかりした足取りで進み、中庭を囲む建物の隙間から表通りへと姿を消した。
さては夜の仕事に就く者か、夜間の徘徊をたのしむ変人か、もしかすると夜盗か。そのときはメイラーもさして気にとめなかった。まもなく腹を満たされた彼は眠気に襲われた。
まだ寝るには早い時間だが、メイラーは素直に欲求に従った。それくらいしか、いまの彼にできることはなかったからだ。
浅い眠りを解かれたのは寝入ってからいくらもしないころだったろう。誰かが部屋の扉を開けたのを、メイラーは物音で知った。つづいて衣擦れの音と、忍ぶような足音が近づいてきた。
部屋の空気がわずかに揺れる。うっすらと目を開けたメイラーは、寝台に寝たまま首だけを動かした。その誰かはランタンを携えており、紫紺のフード付きマントをはおっていた。メイラーの寝台のそばまでくると、ランタンの放つ黄色い光が彼を照らした。
「なんだ、アイシャ……おまえか」
と、まぶしさに目を細めつつメイラー。
「起こすつもりはなかった。すまなかったな」
やや低い女性の声。アイシャと呼ばれた彼女がランタンの火屋を外して、寝台脇の小卓にあった燭台の蝋燭へ火を移した。そうして、かぶっていたフードを背に垂らす。
緑なす黒髪がふわりと肩にこぼれ、顔貌があらわとなった。褐色の肌、おなじ色の瞳。わずかに微笑を浮かべたアイシャが、メイラーのほうへ目をやった。彼女の瞳に見つめられると、メイラーはいつも吸い込まれそうな思いを味わう。
「実は、国王騎士団の英雄が名誉の負傷をしたという噂を聞いてな。どんなものかと、様子を見に寄っただけだ」
「その口ぶりでは、もうなにが起こったのか知っているようだな」
メイラーはおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。
「ああ、知っているとも。わが神聖騎士団にはすべての噂が集まるからな」
オーリア正教会の大主教が擁する戦僧たち──それが神聖騎士団である。国王騎士団と神聖騎士団は、互いが既得権益を有する似たような治安組織ゆえ、しばしばその活動において衝突する場合があった。要するに、どちらも縄張り意識が強い。だが、メイラーは神聖騎士であるアイシャには一目置いていた。というのも彼女が十分に有能なのを知っていたからで、ふたりは以前、協力関係を結び難事件を解決したこともあるのだった。
「そのへんに椅子がある。座れよ」
メイラーが部屋の隅を顎でしゃくると、アイシャは丸椅子を見つけてきて寝台の横に座った。彼女は足を組むと、背を丸めて自分の膝に頬杖をついた。
「それで、怪我の具合は?」
「まだ少し痛む。なんとかいう骨が二本とも折れたので、歩けるようになるのは数カ月先だそうだ」
「そんなにか。──どれ、わたしが診てやろう」
「よせ。いいんだ」
足に触れようとするアイシャにメイラーは顔をしかめた。寝台の上で身をよじり、もぞもぞと彼女から逃れる。
「どうしてだ。治癒の呪文で骨折などすぐに治るぞ」
とアイシャ。彼女はバトルクレリックである。それゆえ僧侶と戦士の両スキルをそなえたアイシャは、自身や他人の傷を癒やす信仰呪文を使えるのだ。
「いや、やめておく。おれは自然に治したい」
「この部屋で数カ月も過ごすというのか、退屈に耐えて?」
「そうだ」
「気が知れんな。不安に感じているのなら教えてやるが、信仰呪文での治療には痛みもない」
「ちがう、そうじゃない。だいたい不自然だろう」
「なにが?」
「奇跡で怪我が治るということがだ。おれはユエニ神の信徒ではない」
「信徒でなくとも、信仰呪文で怪我を治した者は大勢いる」
「カネを払って、だろ。オーリア正教会は奇跡の治療でカネを集めてる、それも気に入らん。あと、なにより──」
メイラーは苦々しい表情でアイシャから顔を背けた。
「どうした、言え。気になるぞ」
尻切れになった言葉の先をアイシャが促す。するとメイラーは、
「おまえに借りを作りたくない」
「なんだ、それが本心か」
アイシャは癖毛気味の黒髪を揺らしながら、声を立てて笑った。どうやらメイラーは強い男を気取りたいのだ。病床の上にあっても。
男というのは、なぜこうも自尊心に拘るのだろうか。ふてくされているメイラーを、しばらくアイシャはおもしろそうに眺めた。そうしてから、おもむろに椅子から立ちあがる。
「意地っ張りめ。ならば、すきにするがいい。わたしは強要しない」
「おい、もう帰るのか?」
丸椅子から立ったアイシャを、メイラーはちょっとおどろいたような顔で見あげている。
「ああ。ここへくる前に、看護師からあまり遅くならぬようにと言われたしな」
「おれのほうは、いっこうにかまわんのだが……」
「そうもいくまい。話を聞いたときは心配したが、ずいぶん元気そうだ。安心した。怪我人の仕事は養生することだ、医者の言うことをよく聞けよ」
軽く手を振り、部屋を出てゆくアイシャ。それをメイラーは今生の別れでもあるかのように見送った。
枕が変わるとよく眠れないという者がいる。どうやらメイラーもそのひとりらしい。おまけに少し昼寝をしたせいか、妙に目が冴えた。
暗中でなかなか寝付けないで輾転反側するうち、メイラーは人の話し声のようなものを聞いた。寝台で半身を起こして、すぐ横の窓辺からそろりと顔を出す。やや冷えた空気が頬を撫でた。すると、やはり夜更けの中庭に誰かがいた。中庭を囲む集合住宅ではもうどの家も灯りを消してあったので、あたりは暗かった。が、その者は角灯を手にしており、中庭を横切ろうとするのが見えた。
夕食のあとに見た男だ。服装からしてまちがいはない。さらに、その彼の後ろにもうひとり。ぼんやりとしか見えなかったものの、女性だ。遠くから届く声からすれば、まだ若い。ふたりは会話を交わしつつ、療養所の右手にある建物へと入っていった。ほどなくして、その建物の一階、いちばん端の部屋に灯りが点いた。窓の鎧戸は閉じてあったが、斜めに重ねた鎧板の隙間から光が漏れている。察すれば、そこが男の住まいなのだろう。
遊び人がどこかの尻軽女に声をかけて、自分の家へと連れ込んだようだ。
メイラーはつぶれた枕を整え、やれやれと横になった。それからしばらく彼は浅い眠りと目覚めをくり返した。
微睡みのなか、メイラーは女のか細い悲鳴を聞いた気がした。だがまもなく深い眠りに落ちたので、それが夢か現実なのかは、わからなかった。
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