あしたへ向かう航海

木屋輔枠

 三星アラタはアラームを止めて目を開けた。

引かれたままのカーテンに朝の光が淡くにじんでいる。アラタが目覚めたのを感知して部屋の電気が付く。

 少女は猫のように目を細めて欠伸をした。

 ベッドの上でごろんと仰向けになり、頭の上に右の手のひらをかざす。空間を横になでると青い長方形の入力ウィンドウが表示され、右手のそばに片手用キーボードが現れる。

 「制服」と入力し、エンターキーを叩く。かかげた右手の袖がパジャマから灰色のブレザーに変わっていた。

 肩で切りそろえられた黒髪をふわりと揺らし、軽やかにベッドから飛び降りる。足裏から伝わる床の感触は硬く、スカートの裾が少女の膝がしらを撫でた。

 仮想の世界と現実の感覚の融合。

 豪雨と竜巻が建物を破壊し、地球温暖化による急激な気温上昇により屋外での活動が困難になった結果、人々は『ハコブネ』というVR機器に入ってAI『ナユタ』が管理する仮想空間で生活することになった。

 ハコブネは宇宙での太陽光発電システムから無線供給を受けて稼働していて、高さ約四メートル、底面が一辺約二メートルの箱型をしている。

上蓋を開けると、中には透明なジェルが満ちている。『捕捉粒子』と『感覚粒子』と呼ばれる極小の粒で、仮想空間での体験を現実の体験に近づけるためのVR機器である。

 捕捉粒子は人間の動きを捉える役目をする。ハコブネのコンピューターが捕捉粒子の座標を計算して仮想空間に形と動きを正確に反映する。

 感覚粒子は嗅覚・味覚・触覚を伝える役目をする。特定の味を感じさせる化学物質を口へ届けたり、粒子の大きさや組み合わせを変えて触感を伝えたりする。重い物を持ち上げたときの負荷や走っているときに体に受ける風の抵抗も粒子の密度を変えることにより再現できる。

 他にも、酸素と二酸化炭素をため込むことのできる粒子が肺でガス交換を行うなど、仮想空間で暮らしが完結するシステムが整えられている。

 アラタが小学二年生の頃から仮想空間での生活に切り替える人が増え、今ではハコブネから出て生身で活動しているのは研究者くらいだった。


 アラタは家の玄関のドアの前に立って「高校」と入力する。読み込み中のプログレスバーが表示されて、準備完了の合図とともにドアを開けた。

 一歩踏み出すと二年B組の教室のドアの前だ。

 探偵のようにあごに手をやってスライド式の扉を観察する。昨日はドアを蹴破った。おとといは助走をつけて突っ込んだ。その前はオリジナルのダンスを踊ったし逆立ちもした。

「邪魔よアラタ」

 後頭部に鈍い衝撃。

振り返ると明るい茶髪をツインテールにした少女――赤井チカが勝気な瞳を吊り上げて鋭くアラタをにらんでいた。

 学校では校則通りの制服や髪色にしかできないが、仮想空間のバグを利用したり自分のハコブネのコンピューターを改造したりして校則を破ることができる。

「おはよ! あだ」

 アラタのおでこがぺちっと平手で叩かれた。

「あんたのバカには迷惑してんのよ。昨日あんたがバグ踏み抜いたせいで教室中の机が全部天井に張り付いちゃったじゃない! 後片付けまできちんとやんなさいよ!」

「見つけるのは得意なんだよ」

 チカの視線がナイフのように鋭くなってアラタは目をそらす。

「そこまでにしろよチカ。アラタをいじめるな」

 澄んだ声が二人の間に滑り込む。さらさらの長い髪を揺らして教室から顔をのぞかせたのは枯岸ユナだ。背が高くて手足が細い。さらに金髪。

この春からの転校生で場所の移動を数秒で行える仮想空間では珍しい。

「ユナは黙ってて。あたしだってこいつが元に戻せるなら文句言わないわよ」

 チカがアラタの首根っこをつまんで揺さぶる。二人は地上で暮らしていた時からの幼馴染だ。

「ふん。アラタのおかげでチカのスキルだって上がったのだろう。羨ましいよ」

「どこが! 迷惑なだけよ!」

 クラスで最も目立つ二人がアラタを挟んで言い争う。ユナはなぜかアラタのことを気に入っていた。

 そもそも、アラタは奇行ばかりする問題児だと学校では避けられていた。一方で髪色を変えたり制服を着崩したりしていなかったから、ただのトラブルメーカーの落ちこぼれだと思われていて、地味な嫌がらせを受けていた。

 しかし、進級して幼馴染のチカと同じクラスになってから状況は変わった。

ブレザーの前を開け、ネクタイを外し、学校一派手な髪色をしたチカがアラタを独占しはじめたからだ。チカは他の連中がアラタにちょっかいをかけると露骨に嫌な顔をしたから、怖くて誰も近寄れなくなった。

「アラタも嫌って言っていいんだ。この暴力女にさ」

「はあ? 誰が暴力女よ! あたしはアラタのこと、」

 言いかけたチカの頬がかっと赤くなって、アラタをなぜか突き飛ばした。

 よろめいたアラタをユナが抱きとめる。細いのに体重をあずけてもぐらつかない。 

「チカのこと全然嫌じゃないよ。ちょっと厳しすぎるときあるけど」

 チカは不器用だから行動が極端になりがちで、誤解されることが多い。ユナをはじめとしたクラスメイトには、アラタがいじめられているように見えるのかもしれない。

 そのときチャイムが鳴って、担任が教卓に現れる。

席について窓の外を眺める。

(くだらないなあ)

 嫌がらせを受けていたときも同じことを思っていた。

 空は晴れていて、底なしの青空は深い色をして、宇宙のかなたまで続いているようだった。しかし、ここはナユタがすべてを管理する作られた世界なのだ。

 教室を見回すと、制服を着崩したり髪色を変えたりした生徒がぼんやりと先生の話を聞いていた。

 狭い学校で、ナユタの世界で、誰かの上に立つことはそんなに重要だろうか。

もっと面白いことがしたい。でも現状を変える能力があるわけでもない。アラタにあるのは炎のような焦りだけだ。焦燥が胸の内側から爪を立てて、アラタを突飛な行動へと突き動かしていた。



 網の上でじゅうじゅうと音を立てていた肉がアラタの皿に放り込まれる。にへらと笑みを浮かべると、ユナが「タレついてるぞ」と紙ナプキンでアラタの口の端をぬぐった。

 ユナが入力ウィンドウに「カルビ 塩」と入力する。空中に表示されたプログレスバーが百パーセントになって、現れたカルビの皿をキャッチする。オーダーに沿った味と食感をナユタが計算し、工場で作成した完全栄養食が各自のハコブネにドローンで放り込まれている。

「食べ放題あと何分?」

「授業はサボリだろう? まだまだ平気さ」

 ここはアラタが見つけた仮想空間のバグだ。

 仮想空間で火災は起きないのに赤い箱型の消火設備があったから、ためしに開けてみると、壁や天井から机や黒板が生えて人体模型が床に突き刺さった、荒れた空間が広がっていた。

 穴の開いた床に二人分のスペースを見つけ、ユナと腰を下ろして七輪を囲んでいた。左手に白米を持ち、カルビを網に並べながら聞いてみる。

「ユナはさあ、どうして学校来てるの?」

「それは学校に行く年齢だからさ」

「楽しい?」

「その質問はそっくりアラタに返すよ。私とアラタの答えはきっと同じだろう」

 さらさらの前髪からのぞく真っ直ぐな眼光に心臓が揺れる。

 ユナは不思議な友達だ。

 この場所は誰にも教えていなかったのに、ユナは転校初日に看破した。ユナは「なんでも言ってくれ。叶えてやる」と言って、暗い場所に一人で転がっていたアラタの隣に座った。その瞳は自信に満ちていて、学校で出会った誰とも違う色をしていた。どこか達観したようすのユナを見て、素直に「かっこいいね」と言ったことを覚えている。

 ユナは憧れでもあり、つまらないことを同じようにつまらないと思える仲間だった。

「何でも言ってくれていいんだぞ。私にはその力がある」

「……自分でいうのもなんだけど、ユナって私に甘くない?」

「同士だろう、我々は。ならば同じ世界を見たいと思うのが普通ではないか?」

 おそらく、ユナは仮想空間の書き換え技術だけでなく、ハコブネのコンピューター自体をかなりいじっている。学校では処理の負荷を減らすために学食以外は食べれないし、仮想空間への干渉速度がチカとは段違いだった。

「ほら言ってみろ」

「うーん」

 誰も寄り付かない物置き部屋を見回す。

 天井にロッカーが張り付いて、横から突き出た黒板には誰かの落書きが明滅している。奥には孔雀のはく製があって、両脇に数十本の竹刀が等間隔で直立している。たくさんあるのに手に取りたい物は何もなかった。

「……ここじゃないところに行きたい、かな」

「どこに行くつもりだ。言っておくが地上は住めたもんじゃないぞ」

「でも、ここは窮屈だよ」

「そうか?」

 ユナがキーボードを表示して素早くコマンドを入力すると、暗闇が色を変えていく。

「空だ、すごい」

 ユナとアラタは床の破片に座ったまま澄み渡る青空の真ん中にいた。ユナの手は止まらない。

 二人を乗せた床が風を切って飛びはじめた。黒髪がはためいてアラタの頬をばたばたと撫でる。

「ははは! 気持ちいいだろ!」

 ときどき白い雲が体の横をかすめては去っていく。

 七輪や皿は吹っ飛ばされて、いつの間にかユナと二人きりになっていた。風に目を細めるアラタをユナが抱き寄せる。金髪を風になびかせて、ただ前だけを見つめる横顔が頼もしい。

「この世界は自由さ! 君の想像力と私の力でどうにでも生まれ変わる!」

 顔を寄せてあって、笑う。ユナは他のクラスメイトとは違う、憧れで自慢の友達だ――。

 そう思ったとき、空が急速に赤みを帯びる。夕焼けだ。アラタたちのずっと後ろで太陽が沈もうとしている。

「アラタ!」

 振り返ると、掃除用のホウキにまたがったチカが太陽を背負って追いかけてきている。

「ユナ、ちょっと止まって!」

 空を滑る床がゆっくりと止まるとチカがアラタとユナの座った床に飛び降りてくる。チカの二つに結われた髪が夕焼け色に透き通り、風に乗ってきらめいた。

「……ハコブネから出て、あんたのこと調べたの」

 チカの視線がユナを突き刺す。

「枯岸ユナなんて人間はいない」

 座り込んだユナはチカを眩しそうに見上げたまま動かない。

「あんたは……ナユタが作り出した、架空の人間よ。実体のない、仮想空間のプログラム」

「……驚いたな。どうやって知った?」

「あんたの仮想空間の書き換え技術は異常よ。そもそもただの人間じゃないと思ってた。だから、ハコブネから出て地下病院でカルテを調べたの。あたしが枯岸ユナですって嘘ついてね」

「か、架空の人間?」

 ユナは戸惑うアラタの手を取り立ち上がる。夕焼けの中にたたずむアラタたちの影が深く、暗くなっていく。

「ハコブネに入る前の検査は地下病院でするから、あんたのカルテは絶対あるはず。向こうが戸惑ってたから聞いたら、そんな名前の人はいないって」

「なるほどな。ローカル回線で保管されているデータの操作は少々面倒でね」

「データの書き換えなんてAIがやってはいけないことよ。それに、ナユタは人間に危害を加えることはできない。あたしたち生身の人間に干渉するのはルール違反よ」

「私は、幸せな世界――悲しみのない世界を作ろうとしているのさ。危害ではない。これはすべて、君たち人間のためだ」

 ユナの手をぎゅっと握ると柔らかく握り返される。ハコブネの中にいる枯岸ユナの手の感触がアラタのハコブネで再現されているはずだった。

「アラタ。君を見ていて……私は不安だったんだ。君は一人で苦しんでいたから、君に幸せになってほしかった。君の理解者になって、この世界で望みを叶えてやりたかったんだ」

「騙されないで! ユナはアラタの感情を飼いならしていただけよ!」

 友達、騙す、悲しみのない世界、仮想空間のプログラム――。様々な言葉が頭の中に渦巻いて沸騰する。ユナの顔が知らない人間の顔に塗り替わったようで、繋いだ手から恐怖がぞわりと這い上った。

「……いつでも私を呼んでくれ。アラタのためなら、どこにでも駆けつける」

 ユナがアラタの手を離す。

 人智を超えた美しい微笑みが朱色の光で燃えていた。



「ユナ!」

 まばたきする間にアラタは赤い扉の前に座り込んでいた。ユナに転送されたのだ。

 あわてて扉を開くが、もう暗闇は広がっておらず、当たり前のように消火設備が詰まっていた。

 頭上からハンカチが差し出され、見上げるとチカが心配そうな顔をして立っていた。頬が熱く、自分が泣いていることに気が付いた。

 肩を震わせるアラタの隣に、何も言わずにチカが座った。

 ユナは、ナユタが作り出した実在しない人間。

 アラタの悲しみをなくすための、ナユタのプログラム。

「友達だって、思ったのに……、どうして」

 アラタは堂々として自信満々なユナが好きだった。でも、ユナはアラタのことをどう思っていたのだろう。

 きっと、ユナに笑い返し、思いやる意味は何もなかった。プログラムに心はないのだから、ユナは楽しくも嬉しくもない。アラタは一人で笑ったりしゃべったりしていただけだ。

 それでもユナと繋いだ手の感覚や返してくれた笑顔に優しさを感じてしまって、矛盾に胸が締め付けられる。人間と機械の線引きができなくて、ぐちゃぐちゃになる。友達って何だろう。

 握りしめていた拳にチカの手が重なった。

「悲しみのない世界なんて、あたしは嫌」

「……なんで?」

 ユナと過ごす時間は、間違いなく楽しかった。ユナの優しさと共感が感情に基づかない計画でも、それで幸せになれるのなら、悲しみのない世界の方がいいのかもしれない。人間を超越する計算力を持ったナユタにかかれば、より多くの人間が幸せになれるのかもしれない。

「だって、悲しみがなかったら、あたしはアラタの優しさに出会えなかった」

「優しさ? 私の?」

 チカはこくりと頷いた。

「ハコブネに入る前、幼稚園の頃のこと覚えてる? あたしの眼鏡がどこかに隠されて、帰れなくなって泣いてたら、アラタが手を引いて一緒に歩いてくれたこと」

 チカは地上ではかなり分厚い眼鏡をかけていて、小学校に上がる前まではいじめられっ子だった。

「嬉しかった。その日からアラタについて回るようになって、アラタと友達になって、あたしの世界は変わったの。いつだって今あるものを疑って、もっと面白いものを探そうってハチャメチャばっかりしてたけど」

 友達という言葉に胸が震える。

「あたしはアラタがいて、世界が変わった。毎日、面白いわ。アラタにとってはつまらない?」

「それは……」

 うかがうように、少しだけ悲しそうな顔をチカにされて、アラタは言葉に詰まった。自分のことを友達だと言ってくれるチカにこんな顔をしてほしくなかった。

悲しみと虚しさと焦燥の理由を、チカに伝えようと言葉にする。

「……毎日が窮屈で。学校っていう小さい社会で、人が嫌がることをして楽しそうにしてる皆が嫌だった。些細なことにこだわるのも下らなくて。それを受け入れて、ただ毎日をやり過ごしてる自分もすごく嫌で」

 平坦に続く毎日が、何も起きない明日がつまらなくて、いつも虚しさを感じていた。もっと面白いことがあると、ないものねだりをして、このままではいけないと行き場のない怒りを抱えていた。

 本当に欲しいものはなんだろう。求めているものはなんだろう。それをナユタからもらえるのだろうか。

 座り込んで、目の前の宙空をぼんやり眺めている。

 壁に背中をあずけた二人は、同じものを見ているようで違うものを見ていた。

「あたしはそんなアラタが好き。今よりもっと幸せになれるよって言われても、今のアラタに出会いたい。アラタじゃなきゃダメ。嫌なことを嫌って感じて、変えたいって行動できるアラタに出会いたいの!」

 言いたいことを言った安堵が熱いため息になってチカの口から吐き出された。伝えきれなかった気持ちは涙になって、瞳を濡らしていた。

 幼稚園児のチカが悲しんで泣いたことが、アラタが手を差し伸べることに繋がっていた。アラタが苦しんで行動していたことが、チカの世界を彩って、アラタへの信頼を生んでいた。悲しい気持ちだって、何かに繋がっていく。

 人の心が出会いのきっかけになるのなら、悲しみさえも手放したくない。

 完全な幸せなんて求めていない。作られた共感はいらない。欲しかったのは、悲しみや苦しみを感じて、満たされない不完全な心を抱えた友達だ。

「私も……チカに会いたかった」

 言葉は自然に紡がれた。チカの情熱がアラタの胸を支配していた焦燥感を変えていく。

 理解できない価値観を持った他人をくだらないと思って、反発してばかりいた。見えないルールが支配する窮屈さから逃れたくて抵抗してばかりだった。でも、世界を変える方法は心を閉ざすことじゃない。他人に手を伸ばして、他人の世界を変えることだ。その方向性が新しい世界を創っていく。

 アラタの中の焦燥が一つの信念に収束して、大きな矢印になっていく。

「……ハコブネの外に、行こう」

「外に出てどうするつもり?」

「ユナに会う」

 ユナに会って伝えたいことがある。

 現実にそっくりな仮想空間を通して、苦しむ人間を何人も何人も見てきたユナが示した答えを、否定する。

 二人の耳に階段を上がる足音が聞こえてくる。

「私は逃げも隠れもしない。ここで話そうじゃないか」

 ユナがアラタとチカの前に現れる。堂々と背筋を伸ばして佇むユナは美しい。完璧で、隙がない。

「ここじゃ嫌だ」

「何故だ? ハコブネの中は完全に現実世界を再現している。どこに不都合がある」

「……一人の意志で、指先だけで変わってしまう世界なんて嫌だよ。怖いよ」

 ユナがやれやれと嘆息する。

「合理的じゃないな。どうしてわざわざ苦難を選ぼうとする? 困難なんてない方がいいだろう」

「……苦しみが必要とは言えないけど、少なくとも私たちには大切だった」

 チカと手を繋いで、ほどけない程度に握り合う。チカの手の感触が、アラタの手の中にある。

 この絆を教えるんだ。

 だから、ごまかしのきかない場所がいい。

何もない吹きさらしの荒れた場所で、強い風が身を刺すようでもいい。悲しみからはじまった確かなものを証明する。

「友達を、教えてあげる」

「……君たちのハコブネを開けるから、待っていてくれ。迎えに行く」

 


 蒸気とともにハコブネの蓋が開き、アラタは十年ぶりに外に出た。

 映像を投影していたスマートコンタクトを外してジェルの中に投げ入れる。

 真っ黒なハコブネが等間隔でずらりと並んで、数万台のコンピューターのうなりが地面から重く響いてくる。天井は高く、濃淡のない灰色が続いている。黒と灰色だけの景色は仮想空間よりも作り物めいている。

 ハコブネの壁面が盛り上がるようにして階段が現れて、床に降りた。

 ハコブネの底部の収納から板状の環境適応ジャンプスーツを取り出す。足のかたちのマークに両足を乗せていると、繊維型ロボットが編みあがって服になる。

 そびえたつハコブネからいくつもの管が伸びて地面を這っていた。突然人影がよぎって振り向くと、人型ロボットがハコブネの外装や設備点検をしていた。

 座って待っていたアラタの前に白い全自動車が止まる。

「やあ」

 窓が透過され、運転席からユナの顔がのぞく。後部座席には眼鏡姿のチカが乗っていた。

 ナユタは完全栄養食を作る工場のほかに、ドローンやハコブネの部品を作るために数多くの工場を管理している。目の前にいるユナは人型ロボットだ。

 アラタが車に乗り込むと座席が静かに動いて円形になる。

 ユナは金髪で、チカは黒髪を二つに結っていた。

「希望の場所はあるかい? 地下病院と工場とハコブネしかないけどね」

「……地上には出れる?」

「見れるところに行くことは可能だ」

 音もなく車が走り出す。車の内部に外の映像が投影されて、三人の座る椅子が浮かんで移動しているようにみえる。

「まったく、君たちの友情には驚いたよ。私の秘密を突き止めてしまうんだからね」

 ユナがチカにからかうような眼差しを向けた。

「隠そうと思えば隠せたでしょ。あんたはわざとあたしに教えたんだわ。どうして?」

「……私の正体を知ったら君はアラタと私を引き離そうとする。君は傷ついたアラタを慰める。アラタは君との友情を再確認する。ハッピーエンドじゃないか」

 アラタは言葉を失った。こうなることも、ユナの予想通りだったのだ。

「ユナに、未来はどこまで見えてるの?」

「見えてるわけではない。可能性を知っているだけだ」

 車が大型のエレベーターに乗り込む。ユナが車の中から行先を指定すると静かに上昇をはじめた。

「ユナは、こんなことを何度もやってるの?」

「ナユタが作り出した人間はここ十年で三億を超えている。多くの場合は役目を終えたら消えている」

「AIは人間に危害を加えてはいけないし、危険を見逃すことによって人間に危害を及ぼしてはいけない。あんたのしてることは社会への干渉、人間の支配よ。分かってる?」

「支配ではない。分かっていないのは君だ」

 噛みつくチカに、ユナは鷹揚にかまえたままだった。

「私には可能性が分かるのだ。当然、君たち人類が滅びる可能性も知っている。その結果はなるべく回避すべきだろう」

「滅びるっていうの? まさか」

「可能性があると言っている。地上に住めなくなってからも、君たち人間は権力構造を保持するために破壊される以前の世界を仮想空間にそのままトレースした。変化を余儀なくされる業種もあったが、既得権益はそのままだ。その先は分かるだろう。虐げられている者たちの暴動だ」

「仮想空間で殺人はできないわ」

「ああ。だが、ハコブネから出れば別さ。ここは簡単に地獄になる。そうなる前に、ガス抜きをしているんだ」

 エレベーターが止まってドアが開く。

 車が走り出した場所は荒野だ。地面がめくれて大きな岩がところどころに転がっている。なぎ倒された木の断面はすでに干からびて、頭上で太陽が刺すような光を放っている。

「ここが最上階。三百六十度、今の地上の映像を映している」

 ここは内側に映像が映し出されたドームだった。

「人々の不満を聞いて、私が理解者になる。そうして生活に満足してもらう。それか、怒りの矛先を私に向けさせる。人間同士で争うより、そちらの方が人間のためになるからな」

 その横顔に表情はない。

「ユナ」

 アラタはユナと手を繋いで、車の外に出た。チカも続いて降り、荒野に三人の少女の影が落ちる。

「ユナの言うことは正しいし、その方が人間のためになるんだと思う。でもさ、人間の感情をユナが受け容れて、発散させると、人間は出会えなくなっちゃうんだよ」

「私はただ調整しているだけだ。こんな迂遠な方法で、できることは知れている」

「人間にだって調整はできる。悲しい人がいたら、手を差し伸べることができる。それは多分、ユナよりへたくそなんだろうけど……」

 ユナの手を握っていない方の手でチカと手を繋いで、太陽にかざす。

「ね、悲しみとか怒りって、別の力になると思うんだ。私とチカが出会って、友達になれたみたいに、悲しかった頃より成長して、自分を変えるきっかけになると思うんだ。そうやって生きることって、つらいけど充実してる」

「それは君たちだからさ。多くの場合は、そんな友情を築けない」

「そう。だから力を貸して」

 ユナが目を大きく開いて驚いた顔をする。

 ここは仮想空間ではない。

 アラタがユナの手を離さなければ、ユナと離れることはない。

「こういう世界でありたいの! 誰かと出会って変えていきたいの! どんな悲しみも苦難も乗り越えて次に行きたいの! そんな風に生きるためには、あなたの力が必要なの!」

「アラタの方向性で人類を存続させるために、私に助言をしろということか」

 アラタは小さく、それでもはっきりとうなずいた。

「……まあ、そういう方向の世界を作っておくのも、君たちの存続にあたっては悪くない」

 それを聞いたアラタは、にへらと口角をゆるめた。

 気が付くと太陽は雲に隠され、真っ黒な雲がアラタたちの上まで差し掛かっていた。雲の下では弾丸のような雨が降っている。

「ねえ、このドーム開かないの?」

「今開けたら大変なことになるぞ」

「ちょっと出てみたい」

 雲の中で鮮烈な雷光が迸っている。

「……チカ、止めてくれ」

「こうなったら無理よ、こいつは。アラタに力を貸すって決めたんなら覚悟しなさい」

 ユナは黙って目を閉じる。ふくらはぎの構造を組み替えて両足から地面に太い楔を打ち込み、アラタとチカの肩を強い力で抱き寄せた。

「三、二、一」

 恐ろしい暴風の音しか聞こえなくなった。

 目を開けていられないほどの激しい雨に全身を叩かれる。

 チカが何かを叫んでいる。無声映画のワンシーンのようだった。

 ユナの頼もしい力に包まれて、アラタは弾けるように笑っていた。

 嵐の中でも、ユナとチカとアラタは繋ぎ合って、最後までほどけなかった。〈了〉

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