春の泥炭

@Dooo00N

春の泥炭



 ホストがミーティングを終了しました、とメッセージが映る画面に貼り付けたままの笑顔を向ける。じゃあねと振ったままの手は虚しく残されたまま。酒が残ったグラスをもって台所に向かいながら、明日はなにをして時間を過ごそうかと算段を立てる。

 最初の方は、そりゃあそれなりに盛り上がっていた。少なくとも周りの学生は。父がテレワークになって母が少し苛立つようになったくらいで、由美だって非日常に浮かれていた。歴史の教科書に載るでしょ、歴史の一ページを生きてるんだね、なんて通話ではしゃいでいた。半年続けたカフェのバイトには不安だから行かなくていいと言われて、そのかわりに少し増えたお小遣いは互いの欲しいものリストにつぎこんだ。内緒と言いながら家が数駅離れた友人と会ってみたりして。そんなの、数か月もすれば終わると思っていたから。そう信じ込もうとしていたから。数か月は半年になって、半年はあっという間に一年になった。外務省サイトの渡航安全レベルマップは全世界レベル2のままで、それはつまり夏の短期留学もなくなったということだ。

 万が一感染でもしたら会社に迷惑がかかるから、と父が強くいうからスキーにも行けなかった。母は息が詰まりそうと言って、でもそれを言うことに罪悪感を持ったのか都の医療従事者へ感謝のメッセージを伝えるキャンペーンに熱心に投稿していた。由美はなにもしていない。1年目の大学生活でつるむ友人は作っていたから、通話を繋いで課題をすることもできたし、教授はみんな、オンライン授業は課題が増えて大変でしょ、と言って課題を減らしてくれた。

 リビングのソファには母が眉をひそめていて座っていた。手にはA4の紙があって、ローテーブルには由美の大学からきたのだとわかるロゴ入りの封筒が置かれていた。どうしたのかと隣に座る。

「見てこれ」

出された手紙にはフードバンクを開催すると書かれていた。月一回、大学に在籍する学生優先で、周辺の住人にも食料と日常品を提供するという。去年も非公式で不定期に行っていたが、これから規模を大きくするのだという。

「フードバンク、うちもやってるんだ」

国立に進んだ山口が、大学で運営に関わっていると教えてくれた。捨てられるより、こうやって困っている人の助けになる方がいいと思ってるんだ。彼女はそう言って、もし興味があるなら由美も地域で活動しているところに寄付してみれば、と続けた。

「こんなの送ってくるなんて失礼と思わないのかなあ」

母が不快そうに唇をちょっと噛む癖は、山口が怒るときの癖と同じで、このとき初めてそれに気が付いた。

「困っている生徒はいるかもしれないじゃん。ごはんだって、捨てられるよりマシだと思う」

友人が寄付、なんて言葉を持ち出したとき、由美は笑って首を振った、電話越しだったから、彼女には見えないとわかっていても。――うちは寄付できるほどお金持ちじゃないもん、でももしできるものがあったら送ってみるわ。それっきり、そのことは忘れてしまった。

「でも、あなたの大学でそんな困っている人なんていないでしょ。親御さんも困ってませんか? って遠回しに言ってるみたいで嫌味みたい」

寝間着に着替えた母を横目で盗み見る。なんて言えばいいのかわからなかったからそれ以上は返さなかった。手にしたままのグラスの中身を流しで空けるために立ち上がる。春といってもまだ夜は冷えて、靴下を履いていない素足から震えがぞっとのぼってくるみたいだった。由美の同意も反応も最初から期待していない母はもうお便りのことなんか忘れて、父の同窓会月報を眺めていた。母の横顔におやすみなさい、と声をかける。うん、と優しい声がかえってくる。優しい人。優しいから、それ以上なにも言わない。喧嘩なんてしたことがなかった。

 部屋を出るとき流しはじめたアルバムは四曲目まで進んでいた。そこぬけに明るいアップテンポは前に進めと急かすように歌いあげる。一年前、友人と一緒にはまったグループだった。今日はもう気分じゃなくて音楽を止める。そのあとの静寂も居心地が悪くて、早々に寝間着に着替えた。酒は好きじゃない。好きじゃなくても、飲みたいときがあって、そういう夜は中途半端に酔った頭が死にたいと囁く。理由なんてなくても、死にたいという言葉は自然に湧き出るものなのだ。大人は大げさに心配するだろうから言わない。死にたい、と生きたい、の線引きは、大人が思っているより曖昧で二つはすぐ近くにあるのに、大人はそれをわかってくれない。由美たちよりもっと困っている人が、死にたいと言っても放っておかれるのも由美の世代の友人たちはなんとなく知っていて、だから余計慎重になって口を噤んでしまう。

灯りを落とした部屋のなかベッドに寝ころぶ。ラインのチャット画面を下にさかのぼっていれば、一年近く個チャでやりとりをしてなかった佐々木のアイコンが見つかった。彼女のアイコンは入学式でラインを交換したときから変わっていなくて、単色の淡い赤。ホームは彼女の実家を背景にして愛犬と笑っている写真だった。

 三十分前までオンライン飲み会をしていたなかにも彼女はいた。つるんでるグループ内ではちょくちょく話すし、一緒の授業でグループに振り分けられてディスカッションもした。去年の夏までは「一人暮らしだからちょっときつい」と何度も繰り返していて、彼女が実家の親と折り合いが悪いことも一年生のときになんとなく知っていて、そのたびに空気が微妙になるから、彼女もそれ以降なにも言わなくなった。

『ささき』

指が勝手に送信ボタンを押していて、送信取り消しの作業をする前に既読がついてしまっていた。

 でも、なにも返事がない。

 三文字だけ。ささき。

 なにを言おうとしていたんだろう。

『元気?』

また既読がついて、一分経ったあとでスタンプが送られてきた。茶色い熊。――ささき、一人暮らしって大変じゃない。バイトは続けてるの。学校からのお知らせは届いた? 私が今考えてること、わかってる? 

 どれ一つも送ることができなかった。

『新学期の履修組んだ?』

結局送ったのは全く違う内容で、今度は既読がついて数分経ってもなにもかえってこない。

 どうしよう、と鼓動が早くなる。酔いはすっかりさめていた。ご飯とか困ってないって、そういうふうに聞くのって母が言っていたみたいに失礼なことなんだろうし、本当に困ってたら佐々木が自分から言うかもしれない。先走ってしまったのだと後悔していた。彼女は画面の向こうで怒っているのかもしれなかった。

 二回、アプリを開きなおしてメッセージが届いてないか確認する。返信はなし。その沈黙が、偽善者と糾弾されているような気がして居心地が悪かった。ほんとに佐々木が困っていたら? でも、どうやって切り出そうかって迷っていたら? もしなにか助けてって言われても、私はなにもしてあげられないのに、中途半端に頭を突っ込んだことにならない?

 一緒にやらない?と母が言ってくれた医療従事者へ届く感謝のメッセージを、由美は結局書かなかった。そんなの意味がない気がしたから。山口が教えてくれたフードバンクのことなんて、今日まで忘れていた。佐々木が一人暮らしで、両親とうまくいっていないことも、今日まで気にしてなかった。

 一年間なにをしていたんだろう。というよりも、二十年間なにをしていたんだろうと体を丸める。靴下を履かないままだったから、体が冷えていく気がした。

 その夜は夢を途切れ途切れにいくつも見た。困ってたのに、聞こうともしてくれなかったじゃんと詰る佐々木がいた。うちらは感染しないように気を付けなきゃね、と松崎がランチの帰りに言っていた。田野が、なにかできることがあったらやらなきゃと思って、とフードバンクの案内を見せてくれた。――山口さん、由美の知り合いでしょ? 良い友達がいるね。

汗びっしょりになって飛び起きる。全部、嘘。誰もそんなこと言わない。田野と、国立に行った山口は絶対話が合わないようなタイプだった。松崎は由美以外とも頻繁に外で遊んでいた。それから、佐々木は――。

アプリを開いてメッセージの着信を知らせる音に心臓がまた飛び跳ねる。佐々木のアイコンの隣に、4、の数字。おそるおそる、タップしてみる。

 結局由美がメッセージを送った三十分後に返信があった。今組んだ、ふじちゃんは? の短い文とドヤ顔したキャラクターのスタンプ、それに時間割のスクショが送られていて、それだけでなんだか許されたような気持ちがした。

『わたしはこんなかんじ』

その言葉と一緒に春の時間割を送る。去年まではみんなで一緒に取る授業が多かった。今年は、まだ誰にも履修を聞いていない。佐々木が最初。その日のうちにこれまでにないくらい佐々木とメッセージを交換した。グループで会っていたときよりも、なぜか彼女を近くに感じた。

 ――『よかった、ほんと誰とも会わなかったし、ふじちゃんに救われたわ』

そのメッセージになんて返せばいいかわからなくて指が止まる。聞いていいのかな、と、もし本当に困ってて、誰にも相談できてなかったら、という心配で心が揺れる。誰かを心配できる時点で、由美はその人より余裕があって、そんな簡単なことに今まで気づきもしなかった。

『ね、ささき』

『バイトなにやってるの』

『嫌な気持ちにならないでほしいんだけど』

『大丈夫? 去年は一人で大変って言ってたじゃん』

『今さらなんだって思うかもだけど』

『もし困ってたら、相談のれるから』

こわくて、一気に送って、一斉についた既読にまた震える。

 ありがとう! のスタンプ、感動した、って泣いてるスタンプが連続で送られてきていた。

『ありがと、なんか大学が食料配ってくれてるから、それたまに行ってる』

『寮住みの子とかけっこういるから仲良くなったわ』

『塾講は仕事減らないから助かってるし』

安堵ってじわりと胸に広がる感情なのだと思った。膝を抱いてため息をつく。よかった、という気持ちが、佐々木が大丈夫だと言ってくれたからなのか、それとも佐々木が由美に怒らなかったからなのかよくわからなかった。それでも、よかったと思うことができた。メッセージはそれで終わりじゃなかった。

『ふじちゃんマジ優しいわ』

無性に佐々木の声が聞きたくなっていた。直接会って話を聞きたかった。優しくもない、保身だらけの由美の姿を見せて、謝りたかった。そんなことないと返す前に佐々木がまたスタンプを送ってくる。適当なものを選んで返す。それから、机につっぷした。

 由美の地域の個人が運営しているフードバンクは法人からも個人からも寄贈を受け付けていて、物だけじゃなくて一口1000円からの寄付をすることもできた。どうせ親の金なのに、と冷笑するもう一人の自分を追い払う。自由に使っていいと渡されたものだった。それなら、由美が使いたいものに、たとえ偽善でほとんどなんの役に立たなかったとしても、払うことで満足したかった。家にあった賞味期限があまり遠くない備蓄食料と缶詰を何個か段ボールに詰めたときも、母はやっぱり良い顔をしなかった。それでも毎年賞味期限が切れたレトルトのご飯パックを捨てるのを由美は知っている。捨てるくらいなら、と母に強く反論したのは、初めてだったかもしれない。

 佐々木に優しいね、と言われたことが動機じゃなかった。もっと大きいなにかのために生きたかった。結局は自己満足と笑われても、たぶんうなずくことしかできなくて、それでも今の由美にとって、なにもやらないよりは、佐々木みたいな誰かがどこかで笑ってくれた方が嬉しかった。

 停滞した一年が少しづつ動き始めていくような気がしていた。

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