3. 死神
それでも翌日、こっそりと抜け出して、忠告しに行った。どうしても黙ってはいられなかった。
男は眉をひそめたが、けれど一応、話を聞いてはくれた。
そして、山から帰ってきた男は言った。
「驚いたよ! 木の上から蛇が落ちてきてさ! 危ないところだったんだ! リュシイが教えてくれていなかったら、すぐに逃げられなかったよ!」
彼は、今まで信じていなかった分、興奮して皆に言いまわった。
「さすがは、姫だ」
「姫がいれば、この村は大丈夫」
ますます村の中に話が広まった。
しかも男が、村長に貢ぎ物をしていなかったということも知れ渡った。
姫さえいれば、村長に媚びへつらう必要はないのでは?
そんな話が、ひそひそと囁かれ始めた。
当然、そのことは、村長の耳に入る。
「おまえという娘は……」
村長の家に帰ってから、やはり蹴られた。よろけて机の端に手をついたが、倒れなかった。
蹴られたって、殴られたって、いい。男を見捨てて殺してしまうよりは。
そう思ったリュシイの表情を見て、村長はどう思ったのか。
「いけない娘だね。反抗的な目をして」
「そんなこと」
村長は手を伸ばして、いきなり胸ぐらを掴むと、それを勢いにまかせて引きちぎった。
「あっ」
慌てて両腕で胸元を隠してあとずさった。
血の気が引いた。何か、嫌なにおいがしたような気がした。
村長の妻は、それでも動かなかった。冷めた目でこちらを見つめるばかりだ。
「今まで大事に大事に育ててやったのに。その恩も忘れて、勝手なことをして」
ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
この状況を楽しんでいるのか、口元には下卑た笑いを浮かべている。
「やめて……」
ゆっくりとあとずさる。
どこに、どこに逃げればいいのか。
「今まで、我慢してやってたのに」
汚されたくない。もう充分、人を殺して醜いのに。
背中に、壁が当たる。もう、逃げられない。汚らわしい手が伸びてくる。
「私の夢は!」
突然の大声に、村長は動きを止めた。
「私の夢は、純潔の乙女のみに、もたらされるものです!」
村長の表情に戸惑いが見られたから、少し落ち着いた。
考えて。考えなければ。どうにかして、逃れなければ。
美しさは力というなら、それを最大限に発揮しなければ。私の持てる武器は、それだけ。
私は、神の落とし子。思い込んで。自分を信じて。
「私への暴力だけならまだしも。これ以上私を汚すと、天誅が下りますよ?」
そうして、微笑んだ。村長がたじろいだのが見て取れた。
「私が純潔でなくなったその瞬間、神は私をお見捨てになるでしょう。つまり、もう予知夢を見ることはなくなる。それでも私を汚すと?」
「な、なにを口から出まかせを! それならなぜそのことを今まで黙ってた!」
苦し紛れに、村長はそう言った。それにも笑みで返す。
「まあ、私がそんな汚らわしいことを言うとでも? 神に愛された、この私が」
「いや、でも」
「嘘だと思うなら、やってみるがいいわ。あなたの身に何が起ころうと、私の関知するところではないもの。さあ」
胸元を押さえていた手を離して、広げる。
村長はしばらく逡巡していたようだが、少しして舌打ちしてて、背を向けた。
「興が覚めた。とにかくおとなしくしてれば、こっちだって何もしないでいいんだ」
「そうしてくださいな」
それだけ言って、自室へ戻る。
中に入って、扉を閉めて。
そこでどっと冷や汗が出た。足が震えて止まらない。自分の手を目の前にかざしてみると、やはり小さく震えていた。
その場にへたりこむ。何とか乗り切った。よく思いついたと、自分で自分を褒めた。
神に愛された、この私? とんでもない。
愛された人間が、こんな目に合うものか。
私は神に見放され、死神に愛された。
私に夢を見せるのは、神なんかであるはずがない。
◇
その夜また、夢を見た。村長の夢だった。
目を覚まして、暗がりの中で天井を眺める。
まさか、本当に、天誅?
夢の中で村長は、小さく咳をしていた。それだけ。
けれど、言わなかった。
決して、忠告しなかった。
毎日毎日夢を見て、その度に村長は身体を悪くしていった。
そしてついには、寝込んでしまった。そこまで、あっという間だった。彼は、二度と、立ち上がれなかった。
「リュシイ……」
ある日呼ばれたので、彼が寝込んでいるベッドの傍まで行ってやった。
今、私は、どんな顔をしているのだろう。
少なくとも、村長が美しいと称した顔ではないだろう、と思った。
「これは……天誅か?」
「さあ、どうでしょう」
そんなこと、知るわけがない。
「おまえ……、夢を……見たな……?」
「なんのことでしょう?」
「私の……夢を、見ただろう……」
「いいえ」
そう言って、微笑んでやった。
すると村長は目を見開き、こちらを指さした。
「この……死神め!」
それだけ言って、大きく咳き込む。
外にいた村長の妻が中に入ってきて、声を掛けたりしていたが、結局、そのまま息絶えた。
何も、思わなかった。何の後悔の念も浮かばなかった。
私は本当に、死神になってしまったのだ。
明確に、自分の意志でもって、人を殺した。
妻はこちらに振り向いて言った。
「あんた、うちの人を殺しただろう!」
「いいえ?」
「嘘つくんじゃないよ! どうしてくれるんだ! 私はこれからどうやって暮らしていけばいいんだよ! あんたなんか引き取るんじゃなかった!」
妻は、わめく。だがどの言葉も胸に響いてはこなかった。
「では出て行きますね。今までありがとうございました」
それだけ言って、くるりと振り返ると、そのまま村長の家を出た。
帰ろう。わずかながら、両親と幸せな時間を過ごした、あの家に。
◇
でも、苦しみはそこで終わらなかった。
細々と針仕事を貰ったり、小さな畑を耕したりして、一人で何とか暮らせてはいた。
けれど、村長の家を出た彼女は、同時に保護者を失った。
そうなると、あの汚らわしい視線を感じることが多くなる。
人気のないところに連れ込まれそうになったことも、一度や二度ではない。
狭い村のこと、リュシイを姫と崇める者たちの監視の目も同時にあるから、なんとか気を張って逃れてきた。
それでも気が休まるときは、ほとんどなかった。
家に帰って眠っていても、風が扉を揺らすと、それだけで飛び起きた。
なるべく女性たちの傍にいるようにはしたが、彼女らの視線は冷たかった。特に村長の妻は、事あるごとに冷たく接してきた。
「あんたが誘惑しているんじゃないの?」
そうでなくとも、こう言われる。
「隙を見せては駄目だよ。だから、付け込まれるんだ」
なにもしていない、という言葉は、彼女らには届かなかった。
ゆっくり眠りたい。
ただそれだけを願うようになった。
そんなある日。初めて、村人でない人の夢を見た。
崖の下に倒れている人。
エグリーズだった。
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