第七章
1. 見納め
深く眠っていたつもりだったが、寝室の外が騒がしくて目が覚めた。
「陛下はお休みになっていて」
戸惑うような侍女の声がする。
こんな夜中に訪問者がいるらしい。何か火急の用だろうか、とのそりと身体を起こす。
まさか、大した用もないのに王の寝室を訪れる無礼な輩はこの城にはいないだろう。
「どうしても、今、お伝えしたいことがあるのです」
リュシイの声だった。嫌な予感がして、寝ぼけた頭が一気に回転を始めた。
寝室の前にある控えの間で、侍女が数人と衛兵が、どうしたものかと思案しているのがわかった。
慌てて寝衣のまま寝室を出る。
扉が開く音で、控えの間にいた全員がレディオスのほうへ振り向いた。
「陛下!」
叫ぶように言ったのは、リュシイだった。涙が零れ落ちるのではないかと思うほど、新緑の色をした瞳が潤んでいた。
答えを出してくれる者が現れた、と思ったのか、侍女たちや衛兵は、一様にほっとしたような表情を浮かべていた。
「何だ」
そう問うと、皆がリュシイのほうへ向いた。
当人は瞳を伏せて、口の中で小さく言った。
「わかりました」
それだけで、何を言おうとしているのか理解した。
レディオスは侍従たちに控えの間に残るように言うと、リュシイを王室へうながした。
部屋に入って彼女に視線を移すと、小刻みに震えているのがわかった。
「ジャンティさまがいらっしゃらなくて……」
リュシイの言葉に、ああ、と小さくうなずいた。
「出掛けているからな。クラッセ王が国境を越えたらしい。出迎えに行ったはずだ」
「えっ」
リュシイは顔を上げて短く叫ぶと、突如としてしゃがみ込んで俯いた。
驚いて傍に寄り、膝を折る。
「どうした」
彼の言葉が届いているのかどうか。リュシイの身体の震えが大きくなった。
彼女は何度も何度も、「どうしよう」と口の中で繰り返す。
ふいに、床に敷かれた絨毯に水滴が落ちて吸い込まれたのが、目に入った。
「どうした。泣いていてはわからない」
「……よりにもよって……」
絞り出すように出すその声の、意味を考えるのが恐ろしかった。
よりにもよって。……何が?
「いつ地震が起きるのか、わかったのだろう?」
とにかく落ち着かせようと、肩に手を置く。
それでなのかはわからないが、少し震えが収まったような気がした。
「いつだ?」
極力、彼女を刺激しないようにと口調を柔らかくしたつもりだった。
しかし思いもよらず声が掠れてしまい、彼女にどう伝わったものだろう。
リュシイはぱっと顔を上げ、そして震える声で言った。
「……明日」
「明日?」
おうむ返しにそう問うと、彼女はこくりとうなずく。
瞳から涙がとめどなく溢れていた。
「それは、夜が明けたらという意味か?」
リュシイは再び俯くと、首を横に振った。
「いいえ。……もう一つ夜を越した……夕方に。広場で祭りの準備を……しているのが、見えたのです」
懸命に言葉を出そうとしているのが、わかった。
彼女はやっとで言い終わると、また口を閉ざして泣き始めてしまう。
「そうか。……あと、一日半」
口に出すと、その期間は長いのか短いのかわからなくなった。最低限、しなければならないことを素早く頭の中で計算する。
本当に、よりにもよって。
予定では、クラッセ王は明日の朝には今夜の宿から出立する。だからそれに間に合うよう、ジャンティが向かったのだ。
それでは歓迎式典が行われる予定の明日の夕方に間に合ってしまう。
もし本当に地震が起きれば、彼を巻き込むことは間違いない。
それだけは、絶対に避けなければ。
レディオスは立ち上がると、机に向かい、書状を書いた。
文字が多少乱れているが、構うまい。
書き終えると王室を出て、控えの間でおろおろしている衛兵を呼んで手渡した。
「早馬を出して、ジャンティに届けてくれ」
何ごとかを感じたのか、衛兵はうなずくとその書状を持って駆け出していった。
残った者に告げる。
「夜が明けたら、城内の者、全員を集めてくれ。朝、城外から出勤してくる者も皆」
「全員、でございますか?」
「そう、一人残らず」
レディオスが強く言うと、かしこまりました、と侍女が一礼した。
何が起こったのかと、誰も聞かないことがありがたかった。
再び王室に戻ると、彼女はまだしゃがみ込んだまま、泣いていた。
その姿はとても小さく、触れれば消えてしまいそうに感じられた。
「リュシイ」
声を掛けると、見てわかるほど、びくりと身体を震わせる。
足音を立てぬようにそっと近付いて、彼女の前に座り込んだ。
「大丈夫だ。最善は尽くした」
これから途方もない大仕事が始まろうとしているが、それは口には出さなかった。
「でも……私、何も……できなくて」
途切れ途切れに聞こえる声。
いつも彼女はこうして一人で泣いていたのだろうか。
「あと一日半だなんて……もっと早く……」
そう言って、彼女は何も口に出さなくなった。聞こえるのは、嗚咽だけ。
「大丈夫だ」
再び、そう言い聞かせる。もしかしたら、自分自身に向けた言葉だったかもしれない。
「そなたの進言がなければ、こんなに早くは動けなかった」
彼女の耳に届いているのか、ただ身体を丸めて泣くばかりだ。
こんな小さな身体の中に、今までどれだけの不安を押し込めてきたのだろうかと思うと、いたたまれなくなった。
そっと手を伸ばして銀色の髪に触れ、小さな子供にするように撫でた。
どれくらいそうしていただろうか。
しばらくして泣き止んだ彼女は、おずおずと顔を上げた。レディオスはそっと手を引っ込める。
「申し訳ありません」
取り乱してしまって、と聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で言う。
「行こう」
立ち上がって手を差し出すと、彼女はその上に自分の手を乗せた。
いつか感じたように、荒れた、白くて小さな手。
ぎゅっと握り締めると立ち上がらせる。
「どこへ?」
「見納めだ」
断定的な口調で言ってから、気付く。
どうやら、彼女の予言が本物だと、いつの間にか信じるようになっていたようだ。
◇
朝日が昇ろうとする直前の、エイゼンは美しかった。
じんわりと明るくなっていく空。森や山がその輪郭を徐々に明らかにしていく。川の流れはきらきらと輝き、永遠に続くように流れている。
何も言葉にしなくとも、繋いだ手から、互いの気持ちが手に取るようにわかるような気がした。
さあ、これから仕事が始まる。
◇
大広間はざわついていた。
何が何だかわからぬまま召集されたはいいが、これだけの人数がここに集まったのは初めてのことではないだろうか。
あまりに人が密集しているので、空気が薄く感じられるほどだ。
「私、急ぎの仕事があるのですけれど」
不安げに問う者もいる。
「陛下自ら皆を集めたというから、それはいいのでは?」
傍にいる者が、適当に答える。正確にこの状況を理解している者などいやしない。
しばらくすると入り口の扉が開き、若き王が入室してきた。途端に大広間は静寂に包まれる。王は占い師だという噂の少女を侍らせていた。
彼は壇上に上がると、ぐるりと広間を見渡した。
彼の背後にある、陽の光と天使たちの荘厳な絵が、彼が神に守られているかのように演出していた。
そして、王は口を開いた。よく通る低い声だ。
「急に呼びたててすまない」
王が一言そう言ったとき、荒々しい音とともに扉が開く。
息せききって入室したのは、城で一番の有力者であるジャンティだった。
彼の顔色は遠目で見ても蒼白で、いったい何が始まるのかと訝しむには充分だった。
王は大法官を一瞥すると、口の端を上げて笑った。
が、それも一瞬で、すぐに前に向き直ると、言った。
「これから言うことを、落ち着いて聞いて欲しい」
そう言うと、一つ深呼吸をしてから、再び言葉を紡ぐ。
「明日、クラッセ王がこちらにこられる予定になっているが」
ああ、その話かと皆が納得した瞬間、彼は予想だにしない言葉を舌に乗せた。
「予定は変更だ。どこか別のところに立ち寄っていただいている」
そう言うとジャンティのほうへ振り向き、確認するように首を傾げる。
それを受けたジャンティは深くうなずいた。
その反応を確認すると、王は再び前を向く。
「しかし、国民にはこの話は内密にして欲しい。予定は変わりなく、クラッセ王はこちらに来られる。そして王都で歓迎式典は行われる」
ざわ、と広間がさざめいた。何を言おうとしているのか、さっぱり訳がわからない。
王はしばし目を閉じた。それはまるで、自分自身を落ち着かせようとしているようだった。
そして目を開け、顔を上げると言った。
「明日だけは、どうしても避けなければならない。なぜなら」
そう一旦言葉を切ると、傍に控えている銀髪の乙女のほうに振り返り、そしてまた前方に視線を向けた。
「明日、この地を大地震が襲う可能性があるからだ」
その場にいた者たちが、王の言葉を的確に受け止めたかどうかは疑わしかった。
けれど、大臣の一人が言葉を荒げた。
「ちょっと待っていただきたい。何の根拠があってそんなことを?」
それはこの場にいた全員の心の内を代弁したものであっただろう。
「それは、地震が起きる可能性を示唆した者がいるからだ」
「まさか、そこにいる占い師の言葉ではないでしょうね?」
重臣はさっきから俯いたままの少女を指差して言った。
「そうだ」
王の言葉は簡潔だった。
「馬鹿な!」
その言葉はほとんど悲鳴に近く、その場にいる者の心をかき乱す。
「占い師の言葉を信じるのがどれだけ愚かしいことか、陛下ならよくご存知でしょう!」
その言葉に王は黙ったままであった。
大臣は矛先を変えた。
「大法官! あなたはどうお考えですか。このことを知っていたのですかっ?」
荒々しい言葉を浴びせられたジャンティは、ゆっくりとうなずいた。
「私は、陛下の仰ることに何ら異論はございません」
大臣は二の句を告げなかった。
同時に再びざわめきが広がる。
その中、人ごみを掻き分け前に進み出る者がいた。侍女の一人であるアリシアだった。
彼女は一番前まで歩み出ると、そこに集まった者のほうに向かって大声で言う。
「不躾ながら申し上げます。私は彼女の言葉を信じます。彼女は本物の予言者です。私は彼女の傍で、数々の奇跡を見てきました」
堂々とした発言だった。
そのアリシアの態度が気に入らなかったのかどうかは知らないが、さきほどの大臣が声を荒げた。
「侍女ふぜいが、でしゃばるな! 引っ込んでいろ!」
これは、失言であろう。
が、この言葉のおかげで、アリシアは一瞬の内に侍女や侍従たちを味方につけた。
ジャンティは俯いていたが、おそらく口の端を上げて笑っていただろう。
「侍女ふぜいとは何よ」
「偉そうに」
そんな声があちらこちらから聞こえる。
自分の失言に気が付いたのか、大臣が苦々しげに舌打ちした。
「侍女でなければいいのか? では私も陛下の意見に賛同しよう」
ふいに、そう言葉を発したのは、将軍だった。
ざわめきが広がっていく。
大法官、将軍、国王、この三人が占い師の進言に従うと?
「そんな、馬鹿な!」
大臣の言葉に、内心でうなずいた者も、多々いただろう。
が、意外にも彼に助け舟を出したのは、王であった。
「そなたの気持ちはよくわかる。予言者などと言われて、素直に信じる訳にはいかない。しかし、様々なことを考慮して、私は決めたのだ。悩みもした。けれどもし、少しでも地震が起こる可能性があるのならば、それを無視することはできない」
これ以上、王に何かを言うのは得策ではないと思ったか、大臣は銀髪の少女を指差して言った。
「何者かは知らないが、本当に地震が起きるという確証があるのか?」
俯いたままだった彼女は顔を上げ、しばらくじっと重臣を見つめていた。
その視線に大臣がたじろいだように見えた。
「はい」
静かな声だった。けれどその声はこの場所の空気を震わせる。
「間違いございません」
「もし起きなかったらどうする! こんな混乱を起こした責任をどうとるつもりだ!」
「生憎、私は何も持ち合わせておりません。もしお望みならば」
そう言って、彼女は自分の胸に手を当てた。
「私のこの命を差し上げましょう」
一連の動作、声。あまりにも優雅で、流れるようなそれは、目を奪い動きを止める。
一瞬言葉を失った大臣は、それでも自分自身を奮い立たせるように言った。
「その言葉、よく覚えておけ」
彼らの遣り取りを聞いていた人々は、近くにいる者たちと顔を見合わせたりしている。
国王は、人々をぐるりと見回して口を開いた。
「もしも震災に見舞われなければそれでもいい。いや、もちろん、そのほうがいいに決まっている。そのときは私を愚王と罵ってもらっても構わない。事と次第によっては、王位を退くことにもなるかもしれない。そうなっても仕方がないだろう。けれど私は、少しでも国民が危険に晒される可能性があるのなら、それから守りたいと思っているだけなのだ。だから」
そして彼は信じられない行動に出る。
「どうか、力を貸して欲しい」
そう言って、深く頭を下げた。
どよめきが広間を包む。過去、こうして頭を垂れた王者がいただろうか? 少なくとも、彼らは知らなかった。
「陛下」
脇に控えたままだったジャンティが、王に呼びかけた。
「あとは、皆に詳しい指示を出すだけです。これからは私にお任せを」
「頼む」
頭を上げてそう言うと、王は壇上から降りて、そのまま広間を出て行く。
占い師と言われていた少女が、小走りで彼のあとを追って退室していった。
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