4. 荒れた手

 翌日から、レディオスとジャンティは仕事に取り掛かった。まずは王都の状況を知らねばならない。


「やれやれ、だ」


 信頼のおける者に調査は任せて、毎日のように入ってくる情報に目を通す。

 書類をまとめることだけで、一苦労だ。極秘の内容であるから、その辺にほっぽり出す訳にはいかない。


 さらには調査の内容自体にもうんざりしていた。

 予想はしていたが、こんなにも脆い都だとは思っていなかった。

 歴史を重んじた結果なのか、老朽化の進んだ建物が多い。王都にひしめき合うように並んだ建物の通り道は、狭すぎる上にわき道が多く、曲がりくねっている。


「これは、一度王都というものを考え直す必要がありそうですな」

「かといって、一斉に整備する訳にもいかないだろう」

「それはそうですが」


 新しい報告が入ってくる度に、ため息が漏れる。やめた、と言って投げ出したい衝動に何度かられたかしれない。

 だが、すべてを把握して、優先順位をつけなければならない。


「張本人に手伝わせたいな。彼女はこの話を知っているし」


 書類を繰りながら言うと、ジャンティがいいえ、とつぶやいた。


「彼女には、無理です」

「なぜだ? できるかぎり雑用は他の者に任せて……」

「文字が読めないのですよ」


 その言葉にぴたりと手を止める。

 そしてまじまじとジャンティを見た。彼は書類に目を落としたまま顔を上げない。


「文字が、読めない?」

「そうです。そもそも文字など彼女には必要なかったし、辺境の村には教育設備もない」

「……そうか」


 丁寧な言葉遣いをしていたし、物腰が柔らかく、どことなく気品も漂っていたから、まさか字が読めないなどとは思ってもみなかった。


「今、いい機会ですからアリシアに教えさせています。飲み込みが早いようですよ」

「そうか。為になればいいのだが」

「本人も喜んでいるようですよ。だからこそ、吸収も早い」


 レディオスは再び書類に目を落とした。

 王都の状況や、彼女のような文字が読めない人々がいる、という現実を知れば知るほど、自分がどれほど無力なのかを思い知る。


「新しい仕事が、また増えたな」


 誰に言うともなく、そうつぶやく。

 その言葉にジャンティが顔を上げるのが、気配でわかった。


「私は陛下がそのようにお考えになることを、嬉しく思います」

「そなたは私に甘すぎるからな。世辞は聞かない」

「今のは世辞ではありませぬ」

「では、素直に受け取っておこう」


 小さく笑うと、また書類をめくる。まだまだこれからも情報が舞い込んでくるはずだ。

 それだけではない。情報を元に、対策を考え、実行に移さなければならない。

 いったいどれだけの時間が必要なのか、検討もつかない。


「いつごろのことなのだろう」

「は? なにが、でしょうか」

「地震だ。もし起きるとしたら、いつごろのことなのだろう」

「ああ。彼女が言うには、今はまだわからないそうですよ。時期が迫れば、時間を限定できる夢を見るのではないか、と言っておりました。いつもそうなのだと」

「念のため、もし時期がわかったらこちらに報告するように言っておけ」

「かしこまりました」

「辛いだろうな」


 何気なく言った言葉に、ジャンティがまた手を止めた。


「辛い?」

「もし本当に予知夢を見ているのなら、そんな夢ばかり見て辛いだろう、と言ったんだ」


 それが妄想であれ何であれ、人が死ぬ夢や地震が起きる夢、どれもこれもできれば目を背けたいような出来事だろうに。


「そうですな。できれば、彼女に幸せな夢を見てもらいたいものです」

「あやつは幸せな夢ばかり見ていたのだろうがな」


 レディオスの言う「あやつ」が誰なのか悟ると、ジャンティはああ、と嘆息した。

 常に幸せな予言しかしなかった男。


「それが必要なときもあるのですよ」

「そんなものか?」

「人は、時に逃げたくなるものなのです」

「父上もか?」

「そうかもしれない、と申し上げておきましょう」


 しばらくの沈黙が二人を包む。先に口を開いたのはジャンティだった。


「陛下だって逃げたくなるときがあるでしょう。例えば、今」

「今? この仕事か?」


 机上に山と積まれた書類を見渡してレディオスが言った。

 ジャンティはいいえ、と首を横に振る。


「これから、授業があるでしょう。彼女ははりきっておられましたよ」


 ジャンティが何を言おうとしているのか、しばしの間、眉をひそめて考える。

 そして、あ、と小さな声を漏らした。


「忘れていた」

「あとは私がやっておきますから、陛下はどうぞ授業のほうへ」

「忙しいのに……」

「これらの作業は極秘ですから、他のことはすべて滞りなく行う必要があります。ほら、逃げたくなるときがあるでしょう?」


 レディオスは小さくため息をつくと、立ち上がった。

 言うのではなかった。

 弱みを握られたような気分だった。ジャンティの表情が「してやったり」と言っているように感じるのは、気のせいではないだろう。


          ◇


「私、ずっと考えておりましたのよ。どうしたら陛下が授業に身を入れられるのか」


 上機嫌な様子でアイルが言った。


「で、これか」


 いつもは二人きりの部屋に、もう一人の人間がいた。彼は竪琴を胸に抱いている。


「やはり、曲が必要でしょう。楽団を呼ぶ訳には参りませんから、竪琴で。ああ、ご心配なさらず。彼は竪琴一つで、楽団にも匹敵する腕前ですのよ」


 そんなことは心配していない。

 アイルの思惑とは相反したことを思いつつ、竪琴を持つ男にちらりと視線を走らせると、彼は小さく会釈して言った。


「お耳汚しになりますが」

「いや、ご苦労。期待している」


 心にもない言葉が、口から滑り落ちる。

 本当は大きくため息をつきたいほどだった。


「それから、前に申し上げましたでしょう。私の娘を呼びました。外から見たいものですから」

「アリシアを?」


 知らず声が高くなっていたらしい。アイルは怪訝な顔をした。


「アリシアでは何か?」

「あ、いや……」


 慌てて手を何度か振った。

 正直、アイル以外の人間に、のほほんと踊っている姿を見られるのは死ぬほど恥ずかしかった。


「前にも言ったが、今彼女は客人の相手をしているのだが」

「ええ、存じ上げております。ですから、そのお客さまもこちらで見学なさいます。なにしろダンスというものを知らないようで、いい機会ですし……」

「冗談じゃない!」


 嬉々として言うアイルの言葉を遮って、大声をあげる。

 アリシアだけでも恥ずかしいのに、その上リュシイまで?

 とてもじゃないが耐えられない。


「まあ、なぜですか? こう言ってはなんですが、陛下の授業の受け方は特別です。他の方々は大人数でダンスを学びます。そのほうが切磋琢磨できますし、人に見られるということを意識するのも大切なのです」

「そうかもしれないが、とにかく私は嫌なのだ。悪いが二人には退がってもらって欲しい」

「駄目です」

「どうして」

「もう来ておられます」


 アイルの言葉に一瞬唖然として、恐る恐る振り返る。

 いつの間にかドアが薄く開いていて、そこからアリシアの姿が見えた。


「入ってもよろしいでしょうか?」


 アリシアが楚々として言った。が、言外に棘を感じさせる。

 どこから聞いていたものか知らないが、頭を抱えたくなった。


「どうぞ。あら、お客さまは?」


 娘が一人で入室したのを見て、アイルは首を傾げた。

 アリシアが扉を振り返りながら答える。


「いらっしゃるのですけれど、躊躇なさっていて。陛下のお邪魔になるようなら遠慮したいと仰っておりますの」


 そう言ってちらりとレディオスを横目で眺める。

 非難めいた視線を受ける筋合いはこれっぽっちもないが、だからと言って、彼女らを責める筋合いもない。


「ああ、楽しみにしておられましたのに」


 アリシアが小さく何度も首を横に振りながら、芝居がかった言い方をする。


「……わかった。構わない」


 肩を落としてそう言うと、アリシアはにっこりと極上の微笑みを見せ、扉の外を覗き込んだ。

 アリシアに呼ばれて、リュシイがおずおずと入室してくる。


「あの、本当によろしいのでしょうか?」


 上目遣いでそう言う。レディオスが口を開くより先に、アイルが進み出て腕を開いて彼女を歓迎した。


「ええ、どうぞご遠慮なさらず。ゆっくりとご覧になって」


 壁際にあった椅子を指し示し、それに座るよう彼女をうながす。彼女はちょこんと小さく椅子に腰掛けた。

 レディオスは諦めたように小さくため息をついて振り返る。ふと、苦笑している竪琴奏者と目が合った。じろりと睨むと、彼は小さく肩をすくめる。


 こうなっては仕方がない。不本意ながら、アイルの言うことを受け入れるしかないだろう。


「さ、組んでくださいな」


 アリシアが目前に立ち、ドレスの裾を少し持ち上げて礼をする。

 黙っていればどこの深窓の令嬢かと思えるほどなのに、と本人が聞いたら激昂すること間違いなしのことを思う。

 彼女の手を左手にとり、背中に右手を回して引き寄せる。すっとアリシアの背が伸びたのがわかった。

 それが合図だったかのように、竪琴の音が広間に響き始めた。


 なるほど、これは。

 アイルが言った通り、曲があるとないとでは、全然違う。楽しさすら覚えるようだ。


 ダンス教師を母に持つだけあって、アリシアの動きは滑らかだ。流れるようにリードに従う。

 動きに合わせて彼女の長い髪が踊るのが、心地よかった。

 やはりアリシアの実力が断然上なのか、時に彼女の手に力が入り、導かれる。しかしそれも苦にならなかった。


「はい、止めて!」


 アイルの声で、竪琴の音と二人の動きが止まる。現実の世界に引き戻され、自分が軽く汗ばんでいることに驚いた。


「やはり曲があったほうがいいようです。今までで一番良かったと思います」


 満足げにうなずきながら近寄ってくる。

 ちらりとリュシイのほうへ視線を移すと、彼女は嬉々として小さく拍手をしていた。


「ええと、手を組む位置がまだ低いですわね。それとやはり前屈みになることがありますわ。足元は絶対に見ないでくださいませ」


 言いながら手を添えて、細かい補正に入る。

 ダンスの姿勢を保つのは中々に大変なことだが、アリシアのほうは事もなげにその姿勢を維持している。


「ではもう一度」


 アイルに言われて、竪琴奏者はうなずくと、弦をかき鳴らし始めた。

 どこから連れて来たのかは知らないが、王城に勤めることのできるいい機会だ。彼も必死なのかもしれない。

 音楽に関しては素人だからよくわからないが、相当の実力の持ち主なのだろう。自然に身体が動くようだ。


 最近やっと、周りに目を向けることができるようになってきた。

 けれどまだまだ国民のことを知らないのかもしれない、と思った。


 リュシイはダンスを知らない、と言う。自分が嫌々ながら受けているこの授業は、彼女が生きていく上でまったく必要のないことなのだろう。

 彼女にとっては畑を耕して生きることが、すべてにおいて優先されるのかもしれない。


「あなたも、少し踊ってみる?」


 ふと、そんな声がして、動きを止めた。

 アリシアも声のするほうへ視線を向ける。曲が、止まった。


「えっ、でも、私」


 戸惑いながら、アイルの質問に首を横に振るリュシイがいた。


「せっかくですもの。どうぞ」

「私は踊ったことなんてないし」

「存じ上げておりますわ。教えて差し上げましてよ」


 そう言って、無理矢理手を取り、引っ張って席を立たせる。

 引き摺られるように、リュシイはレディオスとアリシアの前に連れてこられた。

 戸惑うリュシイを他所に、アイルは三人に忙しく視線を移す。


「そうねえ。アリシアでは身長が足りないかしら。陛下、ちょっと組んでくださる?」

「……ああ」


 レディオスがうなずくと、アリシアが一歩引く。

 が、リュシイは一歩も動けないようだった。


「いえ、あの、私は」


 みるみるうちに、彼女の顔が赤く染まっていく。

 なんとか辞退しようとしているが、アイルの勢いに気圧されているようだ。


「いいから、とりあえず陛下の前にまっすぐ立って」


 そう言われて、申し訳ありません、と消え入るような声で言うと、レディオスの前に立つ。


「背中は伸ばして。反るくらいの気持ちで。右手を陛下の左手に乗せて」


 手を添えながら、細かく指示を出していく。


 リュシイの手が自分の手に重ねられたとき、レディオスは思わずまじまじとその白い手に視線を注いだ。

 荒れている。

 たおやかな身体や優雅な物腰からは想像もできない、固くザラついた手。

 レディオスの人生の中で、こんなに荒れた手を持つ女性はいなかった。これが働き者の手なのだろうか、と思う。


 その視線を受け止めてどう思ったのか、彼女はすぐに俯いてしまった。

 すかさずアイルが「顔を上げて、顎を引いて」と声を掛け、彼女は慌ててそれに従うが、ちょっとすると、また俯いてしまう。


「まあ」


 アイルは腰に手を当ててため息をついた。


「自信のなさが、姿勢に表れていますよ」


 リュシイはその言葉にすみません、と小さくつぶやいた。


「謝ることはないのよ。ダンスは初めてだし、上手くできないのは当然。でもね、あなたの自信のなさは、そういうことではないようよ。あなたはとても綺麗だし、自信を持って胸を張って」

「綺麗だなんて……」


 消え入るような、声だ。


「そうね、今のままではせっかくの美貌も宝の持ち腐れ。でも、しゃんとしなさい。自信は数倍も女を美しくしてよ。もしあなたが自分を好きになって、自信を持ったなら、どんな殿方でも振り向かずにはいられないでしょう。ねえ、陛下?」


 急に話を振られて、「は?」と惚けた声を出す。アリシアが視界の隅で苦笑した。


「それは、まあ……そうだろうな」


 しどろもどろでそう答える。すでに輝かんばかりの美貌には、目を奪われるほどなのだ。

 胸を張って闊歩すれば、間違いなく人目を引く。


 レディオスの言葉にリュシイはぱっと顔を上げた。それから少し頬を染めて、恥ずかしげに微笑んだ。

 それは、野に咲く一輪の小さな花が、朝露を受けて開くような輝きを持っていた。


「はい、じゃあもう一度組んでくださる?」


 まだ完全ではないが、先ほどよりは幾分か、背筋が伸びたようだった。

 背中に回した手に力を入れて引き寄せると、やはり俯いてしまったが。

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