2. 雨
アリシアはおそるおそる入室すると、棚の上に置いてあったシーツを手に取り、ベッドに近付いた。
彼女の銀の髪が前に垂れ、その表情はよく見えない。
「あの」
そう声を掛けると、リュシイは顔を上げる。その新緑の色をした瞳が、少し濡れているのがわかった。
「シーツを……」
「ああ、申し訳ありません」
リュシイはそう言うと、おぼつかない動きでベッドを降りた。
いつもなら明るく笑って作業をするアリシアも、今ばかりは軽口を叩くことはできなかった。
「ごめんなさい」
ふいに背後から話し掛けられ、アリシアは振り向く。目を伏せたまま、リュシイは続けた。
「怖がらせてしまって」
「ああ……」
そんなこと、とは言えなかった。
怖かった。この世のものではないものを見たような気分だった。
そのとき、ベッドの天蓋に止まっていた小鳥が羽ばたいた。そしてまた部屋の中をぐるりと一周すると、入ってきた窓から出て行く。
アリシアとリュシイは、無言でその動きを目で追った。それはまるで、夢の中での出来事のようだった。
アリシアは気を取り直してシーツを掛け直すと、ぽん、と一つ、その上を叩く。
「なにが起こったのか、私もよくわかっていないの」
「そうですか」
「一つ、訊いてもいい?」
その言葉に、リュシイは首を傾げて次の言葉を待っていた。
アリシアはごくりと唾を飲み込むと、言った。
「地震が起きるって、本当?」
少しの沈黙。そして。
「はい」
迷いのない言葉だった。アリシアはため息をついて言った。
「そう。嫌ね」
「ええ」
それからまた二人は、口をつぐんだ。作業を完全に終えたアリシアは、他にすることもなく、部屋を出ようと歩き出した。
リュシイがその背中に声を掛ける。
「アリシアさま」
「え?」
振り向くと、やはり彼女はその場所に立ち尽くしたままでいた。
「これは、信じても信じなくても構いません。でも、知っているから、伝えます」
「……なに」
「明日の午後から、雨が降ります。侍女頭の方がちょうどアリシアさまに話しかけたそのときです。洗濯物は城内に干されたほうがいいかと」
彼女はまっすぐにアリシアを見つめていた。アリシアはその視線を受け止めるのが怖くて、目を逸らす。
「覚えておくわ」
それだけ言って、部屋を出た。
◇
「なによ、晴天じゃない」
アリシアは自室の窓から身を乗り出して空を見上げた。
昨夜は中々寝付けなかった。何度も何度も寝返りをうちながら、考えた。
明日。明日になれば、答えが出る。そう思うと、安らかに眠るなんてことはできなかった。
雲一つない青空。小鳥のさえずりがあちらこちらから聞こえる。午後から、と言っていたが、この様子では急に天候が変わるなどとは思えない。
「よし、洗濯しよう」
自分自身に言い聞かせるようにそう声を出して言うと、アリシアは部屋を出る。
急に与えられた客人の世話のおかげで、自分自身の洗濯物も溜まってしまっている。今日は城内のもののついでに、それらも一緒に洗ってしまおう。
アリシアは軽い足取りで、洗濯場に向かった。
◇
午後からは、同僚たちと一緒に城内の掃除にあたっていた。城内に大きな仕事がないときは、手の空いた者たちで雑用をこなすのだ。
そんな風だから緊張感もなくて、おしゃべりしながらの掃除は中々進まず、先輩侍女から睨まれたりしながらも、急に与えられた仕事よりはずいぶん気が休まった。
最初の内は、客人の世話という仕事は嬉しかった。一人での仕事は気を使うことがなく、気楽だった。
それに客人はどこかの姫君と見紛うほど気品のある美女であったし、よく気を使ってアリシアに頭を下げたりしてくれた。彼女が柔らかく微笑むと、それだけで心が和むような気もしていた。
ところが、昨日のあの事件である。
もしかしたら、見かけによらずすごい詐欺師なのかも。
時間が経つにつれ、どんどんそんな思いが膨らんだ。
アリシアは世に言う詐欺師というものを見たことはなかった。しかし、噂話の中では詐欺師とは、悪人のようには見えないものだという。だからこそ、それを生業として生きていけるのだと。
小鳥のことはともかくとして。予知は外れたわ。雨なんて降らない。
「アリシア」
呼びかけられて、振り向く。侍女頭だった。
『侍女頭の方がちょうどアリシアさまに話しかけたそのときです』
急激に、リュシイの言葉が頭の中に蘇った。
「お客人の様子はどうですか」
雨なんて。
「あっ、はい、もう立ち上がることもできるようになりました」
雨なんて、降らない。
「そう、それはよかった。誠心誠意、お世話するのですよ」
だって、あんなに晴れていたもの。雨なんて、降らない。
侍女頭は、立ち去っていく。
その背中を見送ってから、おそるおそる、窓の外に目をやる。
「あっ」
アリシアは短く、声を上げる。何事かと周りにいた侍女たちも、そちらに視線を移す。
「大変!」
誰かの声が、響く。
「雨よ!」
降りだしたばかりの雨粒はまだ小さく、よく見ないとわからないほどだった。けれど、雨足が強くなることは予想できる、分厚い灰色の雲が向こうからやってきている。
侍女たちは掃除道具をそのまま放り出して、洗濯物の干された裏庭に走り出た。
思った通り。雨が激しくなってきた。誰もが手当たり次第に洗濯物を取り込むと、城内に駆け込む。
アリシアも慌てて、とにかく手にとれるものを腕の中に収めて城内へ走った。
「ああ、よかった」
アリシアの隣にいた侍女が、そう笑った。
「まだほとんど濡れていないわ。もう午前中でだいぶ乾いていたみたいだし。アリシアが気付いてくれてよかったわ」
「……そう」
アリシアはそう生返事をしてから、意を決して、駆け出した。
「ちょっ……アリシア!」
背後から、訳もわからずアリシアを呼び止める侍女たちの声が追ってきた。
けれどアリシアには、その声に応える余裕などなかった。
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