38章 お守りを空に返す日
153話 花菜の髪型に込められた意味
浴室の扉を閉めた花菜の顔を思い出す。これまでヘアスタイルの事には触れてこなかった。
確かにもみあげあたりの髪を使って耳の前に三つ編み、いわゆる「おさげ」を両側に作るのはよくあるけれど、片側にだけ作るのは珍しい。それも右側は切り落としたような不自然な部分がないから、自分で切るにしても美容室に行くにしても、意識してカットされているのが分かる。
当然必要な髪の毛の量も左右で違うから、花菜の場合は左側の一部が右側よりも長いのは前から知っていた。
このあと何を話してくるのだろうか。あの表情を見る限り、なにか特別な事情がありそうだ。
こんな日に……、バカなことを聞いてしまったと後悔する。
「花菜、今日は本当によく頑張ったなぁ」
ドライヤーの音が聞こえなくなったので、自分も浴室を片付けて外に出る。
「うん、いろんなこといっぱいあったけどね」
意外にも比較的冷静な花菜に、自分の方が拍子抜けしてしまった。
リビングのテーブルに、小さな箱が置かれている。確か花菜の私物を入れてある大切なもののはず。
「さっき、ごめんなさい。あのね、この髪型変だよね。ちゃんと理由話してなかった」
彼女は箱を開けて、折りたたみ式の2面フォトフレームを取り出した。
「これ、まだ小学1年生の頃の私……。七五三の直前で一番長かった頃でね、まだ両側に結んであるの分かる?」
このフォトフレームは何度も見たことがある。まだ片方に写真が入っていない。本当ならもう入れてもいいのだけれど、結婚式の写真を入れるためにはもう少し時間が経ってからでないと撮ることができないから。
その写真を改めてじっくりと見せてもらった。もともと三人家族だった松本家。確かに両親の間に写っている幼い花菜は、今は結んでいない右側にも編み込みが施されている。
「この右側はね……、お父さんがお空に行ってしまう時に一緒に持っていってもらったの」
「花菜……」
父親の葬儀で告別式直前の朝、幼稚園時代に描いた父の日の絵やプレゼントと一緒に、彼女はひとり自分の髪を切り落として、棺の中のいつも繋いでいてくれた手に持たせたのだという。
「いつか、私がお空に帰ったとき、お父さんにすぐに見つけてもらえるように。片側だけ短ければ私だってすぐに分かってもらえるって思ったから。すぐにお母さんが気が付いて、怒られながらお葬式の前に大急ぎで手直しをしたんだけどね。それが片方だけの始まり……」
「そうだったのか……」
でも、それなら昨年母親を亡くした時にも、同じことをしたのではないだろうか。さすがに大きくなって考えも変わったということか。
いや違う。そうか、あの葬儀の前に見たはさみはそのためのものだったんだ。
「あのね、こっちはね……、お兄ちゃんに切ってもらいなさいって、お母さんの遺言だったの……。お兄ちゃんのお嫁さんになれれば、お母さんに渡すこの印は必要なくなる。『必要がなくなったら、啓太さんに切ってもらいなさい』って」
つまりこの髪型は、彼女が「松本花菜」であることの目印だったというのか。確かに、俺はあの病院で花菜を守ると、花菜の母親を前にして彼女との結婚を誓った。
約束が守られれば、彼女は「松本花菜」から「長谷川花菜」になる。だから、その印は必要がないものになるのだと。
「なんてこった……。そんなことも気付いてやれなかったのか、俺は……」
「ううん。私が種明かしをしなかったのが悪いんだよ。でもいつかはお願いするつもりだった。このはさみ、見覚えあるでしょ?」
もちろんだ。昨年の葬儀場の控室で見たそれ。あの時はなぜこんなものをと不思議に思った。
「お兄ちゃん……、ううん、啓太さん。お願いできますか?」
きちんと刃先側を自分で握り、指を入れる輪だけを俺に向けて差し出す。この仕草だけでも、彼女がきちんと躾けられていたことが分かるほどなのに。
「分かった。あの夜は、これを使うようにお母さんに言われたんだな。だけど、うまくカットできるかは分からないぞ?」
「大丈夫。ちゃんと切る所教えるから」
うなずいて彼女を抱きしめる。耳のすぐそばで、鼻をすすり上げる音がした。
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