3章 帰るよ、約束をした街へ。
10話 あの子の名前は…
この電車に乗るのは何年ぶりになるのだろう。
昼過ぎの横浜駅から
電車は各駅停車だから、それほど混雑もしていない。
再開発によって新しく開発された地域もあれば、古くからの街並みが残る場所もあり、その景色が懐かしいような、新たな発見のような不思議な感覚におそわれる。窓の外を見ていようと、座席は空いていたけれどドア横に立っていた。
この街には高校生まで暮らしていた。生まれ故郷はどこだという質問を受ければ、神奈川県というより横浜市と答えてしまう自分がいる。反応を見ると「神奈川県のどこ?」と聞かれることもないから、逆に便利なのだ。
ただし、横浜市と一言で話しても、他からの出身者が想像する観光ガイドに掲載される華美なエリアは港沿いなどにある一部地域の話で、大部分の面積は写真などとは程遠い、住宅が建ち並ぶ庶民的な街並みが並ぶし、郊外には県営住宅も複数抱え、そこまでの市営バスも走り、平地よりも傾斜地が多い港湾都市でもある。
大学が決まって下宿が必要になり、はじめて家を出ることになってこの街を離れ、外からこの市街地を見るようになると、自分の視点がいかに小さなものだったのかを思い知ることになった。
自分が家を出たその年の冬、今度は父親の転勤の話が持ち上がり、そこに母親も一緒についていってからは地縁も無くなり帰って来ることもなくなった。
不在だった約5年の歳月では、見た目はあまり変わっていないように感じる。それでも細かいところを探していけば当時との変化はあるに違いない。
以前は自動車教習所だったところにマンションが建っていたりと、大きな建物で分かるものもあれば、高校生の頃によく通っていた商店街の中にある総菜のお店はまだ健在なのかと思い出してしまうほど。
でも、それはこれから行けば分かる話だ。お店は変わっているかもしれないし、そもそも高校時代の同級生だって、同じ中学から進学した連中もいたから出くわすことだってあるだろう。
その同級生だって、自分と同じように大学に進学したり、就職のタイミングで実家を出た者、そこまで追いかけることはしていない。
早い奴なら高校で交際していた連中の中にはもう結婚秒読み……、いや、もう新しい世帯を構えていたっておかしくない。
5年という年月は人間をそのくらい変えてしまうほどの時間の流れだった。
ただ、そんな同級生の事を思い出すよりも、この街に今度は仕事をする場として帰ってくることが決まって、俺にはひとつだけどうしても個人的に確かめたい気がかりがあった。
あの当時近所に住んでいた一人の女の子のことだ。
「松本花菜ちゃん……だよな」
そうだ、まだ名前ははっきり覚えている。忘れることはなかった。
誰が忘れられるか。そもそも俺は彼女にきちんと謝罪して、約束を守る決意でこの街に戻ることにしたのだから。
俺の頭の中からその名前を消すことは、あの日の自分の意志に反してしまうことになる。その問題に決着が付くまで許されることではないといつも言い聞かせていた。
その彼女が今もこれから向かう街並みの住民として現在も暮らしているのか。それは必ず確かめなければならないと思いながら窓の外に目をやった。
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