第32話 元淡白女子は引きこもる

 今日は一週間に一度の引きこもりデーである。


 みんなには春乃夜さんへを愛でる日とは言っているものの、その実態は波留君と春乃夜さんへの溢れ出てくる愛をいったん吐き出す日だった。いったん開放する日を作らないと、本人の目の前で何をするか分からないというのが理由だ。


 誰よりも早く教室を出て、真っすぐそのまま家に帰ってきた。パソコンを開いて起動する。


 ただでさえ厳しい家なのに、パソコンを買いたいと言ったのは母親にとってはかなり負担だっただろう。中古で買ったものなのでそこまで高かったわけではなかったのだけれど。


 すこし型式の古く起動するのが遅いそれをせかさずにゆっくりと待つ間に、荷物のたぐいを軽く片付けて棚に仕舞い込んだ。


「ふぅ──……」


 深く息を吐き出し、動画投稿サイトを起動してお目当ての動画を。


 歌声が流れてくる。あのよく知った、何度も効いているはずなのに一向にやめられる気配がない麻薬のようなその声が。


「好き。本当に好き、大好き」


 本人の目の前じゃ到底言えるはずのない言葉を羅列していく。頭の中で思ったことをそのまま口に出せる数少ない日。妹は家にいるものの、前に聞かれたときに春乃夜さんの良さを力説したらなんとなく察してくれていた。


 まさかその春乃夜さんが同じクラスに居て、春乃夜さんへのファンとしての『好き』だけではなくて、恋愛的な『好き』も兼ねているとは思わないだろうけれど。


 春乃夜さんに関して言えば、ちゃんと考えて作られている映像とか、低姿勢の概要欄とか、もうすべてが好きで仕方がない。波留君に関して言ってもすべてが好きなのだけれど。


 あたしが好きなのは、波留君のかっこいいところだ。美波ちゃんの言うようなかわいい部分ももちろん好きだけれど、ふとした時に見せる性格イケメンが好きで好きでたまらない。


「………愛してる、大好き、同じ空気吸ってるだけで昇天しそう」


 あらぬことを口走っているような気がしなくもないけれど、……まあ、仕方がないかもしれなかった。


 頬杖ついて窓の外の眺めてるときとか、低めの声とか、鋭い目とか。めちゃくちゃかっこいいし。もともと春乃夜さんの動画に感じていたようなものと同じ感情を、普段の波留君を見ていて感じるようになってしまった。


 きっとそろそろやばい。自分の恋愛感情に踏ん切りが付けられなくなって、大変なことになる。


「好き好き好き、めっちゃ好き。結婚して」


 もうまともに動画を見ることもできずに、パソコンの前に突っ伏して呪詛のように言葉を繰り返していく。


 動画内でだけど鎖骨がえちえち過ぎて心臓がすごいことになっていた。とりあえず落ち着けと自分自身に思っても、普段の波留君の姿と春乃夜さんの姿が重なって色々妄想が止まらない。


 恰好が薄手過ぎて反則です。っていうか存在そのものが反則です。


 両耳のすぐ横で感じられる春乃夜さんの、最愛の波留君の声に気分が躍る。幸せで幸せでたまらない。どうしてここまで心が締め付けられているのか分からないほどに、幸せな感情がアドレナリンのようにあふれ出ていた。


 今すぐ椅子から跳びあがりたいのを、イヤホンが届かないからと我慢する。


「……なんでこんなに尊い存在がこの世に生まれてきてくれたんだろう。できることならば生まれた瞬間からすべてを見守ってたかった。いやもうほんと神。好きでしかない愛してる」


 はぁ、と湿った息を吐き出して、自分一人しか部屋の中に居ないのをいいことに遠慮なく愛を叫ぶ。こんなに幸せな時間がほかにあるだろうか。


 溢れ出てやまない、到底言葉にはならない大きすぎる想いをできる限りで言葉にするこの時間。あたしにとっては本当に大切で。


 波留君にこの想いを伝えるのは、正直言って怖かった。恋愛しているのは幸せで楽しい。でも、ここから先に、もっと関係が変化してしまったときに、その運命の糸がほころんだ先が最悪の結末だった時に。


 あたしには耐えられる気がしない。


 だからこそ、今はこうして一人で愛を叫ぶだけだ。


「………せっかくみんなからのお誘いを断ってまで引きこもってるんだから、満喫しないと」


 心の内を不安がせめぎ合い始めて、それを無理やりにごまかす。今日は楽しむために、楽しみのために家に帰ってきたのだから。下手にため込んで波留君の前で暴走するのは嫌だし、それであたしの大切な想いが伝わってしまうのはそれ以上に嫌だ。


 そうした不安を消し去ってくれるのは、やはり。


 深く息を吐く。


 春乃夜さんの映像は、歌っている姿が本当にかっこいい。あのいつも見ていた姿の裏側に波留君がいるのだと思うと不思議な感覚がした。


 いつの間にか見つめてしまうような、ふと見せる真剣な表情とか。あたしの心を掻きまわしてやまない優しい笑顔とか。


「………好き」


 何度目だろうか。何度言っても軽くなることのない、若干の恥ずかしさと幸せを伴う言葉。


 恋愛すると人は変わるという。あたしが変わったねと言われたのは、春乃夜さんを知ってからだった。あたしは今、少し前の自分から変わり続けているのだろうか。


 願わくば、敵うのならば、波留君のことが好きなあたしは綺麗でありたかった。

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