はらへりポスト

チーズフライささ美

はらへりポスト

 停留所でバスを待っていると、ぐううと大きな腹の音が鳴り響いた。

 車がよく行きかう場所だが、今いるのは俺一人。日用品の買い出しのあとレストランで軽く食べ、帰る途中である。

 俺が不審に思ったあとも、腹の音はぐうう、きゅるる、ぐうぐうと大きくなるばかりである。

 耳を澄まして音の鳴る方向を確かめてみると、ここからすぐ近くにポストがあった。赤くて四角い、普通のザ・ポストといった風貌だ。足の根本が犬の小便らしき液体で濡れている。

 ポストの裏にホームレスでもいるのかと勘ぐって裏を見たが、物陰に隠れている生物はいない。まさか……ポストの中に誰かいるんではなかろうか。

 恐れと好奇心がせめぎ合い、後者が勝った。郵便物の入り口にそっと手をかけ、中を確認する。もちろん暗くてよく見えないので、スマホのライトで照らしてみた。

 数枚のハガキや封筒が見えたが、他に変わったものは見当たらない。


「あの、何をなさっているのですか」


 ポストを覗き込んでいるまさにそのとき、小さな声が聞こえてきた。

 やばい、通りすがりの人に奇行を見られてしまった。俺は慌ててポストから身体を離し、辺りを見回した。しかし、先ほど同様誰も見当たらない。


「間違って何か入れてしまったんですか、私の中に」

「いや、そういうわけではないんだが……ん?」


 私の中? 俺は恐る恐る、赤い箱の方に向き直った。


「しゃ、しゃべってるのは、お前か」

「あなたこそ、私の声が聞こえるのですか」

「声というか、……腹の音も」

「え、そうなんですか、わあ」


 俺は気が狂ってしまったのだろうか。だってポストが話している。俺と意思疎通ができている。


「誰か隠れているのか。出てこい」

「いえ、誰も隠れていませんよ。ここには私しかいません」

「電話か? スピーカーはどこだ」

「わざわざそんなことする人はいるのでしょうか」


 それもそうだ、と思い直し、俺はこのへんちきりんな状況に無理やり適応しようとする。


「……ポストにも人格ってあるんだな。胃も」

「味覚もありますよ」

「へえ。手紙ってどんな味なんだ?」

「どんなに優しい言葉が書いてあっても、味がなくてパサパサして食えたもんじゃないです」


 人間と似通った味覚らしい。手紙の中身が味に影響するということもなさそうだ。


「あの、不躾ながらお願いがあります。ソフトクリームってご存じですか」

「知らないやつはいないだろう」

「一度でいいから食べてみたいのです。一つだけでいいんです、お腹いっぱいになれなくてもいいから。あれがどんな味なのかどうしても気になるんです」

「どうやって食うんだ。……まさか、」


 俺はもう一度郵便受けの入り口を押し開き、覗き込んだ。


「そうです、そこになんとかして突っ込んでください」

「できるわけないだろ、中の手紙が汚れるし、多分犯罪だ。いや絶対に犯罪だ」

「そんなあ」


 憐憫を誘うように、またポストの腹(でいいのか)がぐきゅるると鳴った。


「この近くにキッチンカーがあるらしくて、子供が楽しそうにソフトクリームを舐めながらここを通るんです。でも私はそれを眺めることしかできなくて」

「やめろ、やめろ! 情に訴えかけてくるな」

「お願いです、もう何十年も味気ない紙束しか食べていないんです、どうか、どうか」

「……一回だけだからな」


 ポストの言うキッチンカーは本当にあった。豊富なフレーバーのソフトクリームを取り揃えている。俺はポストがご所望のベーシックな白いソフトクリームを買うと、そそくさとその場を後にした。


「わあ、いい匂い」

「中身の郵便物、べちゃべちゃになるぞ。本当にいいのか」

「ええ、私の知ったことではありませんから」

「ちょっとおもしろいな、お前。いいか、お前に食わせたら俺は即逃げるからな」


 ポストの元気な返事を聞くや否や、俺は注意深く周りを見回した。誰もいないことを確認し、俺は腹を決めてポストにソフトクリームをねじ込んだ。


「わあ、おいしい! ありがとうござい……」


 俺はポストの感謝を最後まで聞くことなくダッシュでその場を後にした。念のため、バスの停留所二つ分離れたところでようやく乗り込んだ。

 バスの中にはおばあさんと親子連れがいた。俺は心臓をバクバクさせながら一人用の席に座った。全速力で走った疲れや汗が引いても、鼓動は相変わらず爆速でビートを刻んでいる。

 何やってんだ俺は、頭がおかしいんじゃないか、本当かどうかもわからないポストの声に従って、犯罪を犯すなんて。後悔の念がどっと押し寄せてきた。

 でもバレてはないはずだ、きっと、大丈夫だ、と無理やり自分をなだめた。だってあんなに確認したのだから。


「あー!」

「ゆうくん、ダメ、しーっ」


 幼児に指を指されて、今度は心臓が止まるかと思った。しかし、母親の方も俺のことをちらちら見ているように感じる。まさか、そんな。


「あのう、お兄さん」


 優先席に座っていたおばあさんが、不意に声をかけてきた。


「なんであんなことしとった?」

「あ、あんなこと、って」

「だめだ、ポストにアイス捨てちゃあ」


 終わった。俺の人生完全に終わった。確かに歩行者には注意していたが、ポストは停留所のすぐそばだ。必然的に、バスの中にいる客はポストにも注目する。俺の奇行、犯罪行動は少なくともこのおばあさんに見られていたということだ。


「違うんです、頼まれて」

「頼まれてぇ? だでもやっていいことと悪いことがあるだろうよ」

「そうですよね、ホント何やってんだって感じですよね、すみません、ホントに」

「あっこはねえ、足の悪い方が大勢住んどるんよ。子供や孫に手紙出すじっさんばあさんが大勢いるんだよぉ」


 おばあさんは語気を荒げることなく、ただただ静かな口調で俺を詰めた。


「おかーさん、ゆうくんもソフトクリーム食べたい」

「はいはい、スーパーで安かったらね」

「ポストさんと一緒のやつがいい、白いの」

「しっ!」


 親子連れにもバッチリ見られていた事実がここで確定する。


「あんな水っぽいもの入れたらよぉ、中の手紙が汚れっちまうの、わかるだろう」

「おっしゃる通りです、本当に、そうですよね、びちゃびちゃになっちゃう、俺もわかります」

「……あんた、どっか悪いのかい? 病院は行ってるか?」

「これから行く予定です」


 冷静なおばあさんから哀れみの感情を嗅ぎ取ったので、もう俺は頭のおかしいフリをするしかなかった。いや、ポストの声が聞こえている時点でもうとっくにおかしいのだろうけど。

 おばあさんと親子は、俺が下りるバス停の一つ前で下車した。俺は日用品を一度家に置いてから、マジで心療内科に行った。

 薬を処方されてから一か月、俺は恐る恐る件のポストを見に行った。相変わらずぐうぐうと腹の虫が聞こえてくる。


「あ、ソフトクリームの人! あの後は大丈夫でしたか」

「何も大丈夫じゃないな。……今も」


 幻聴にしてはクリアな声だ。前と同じ声。


「警察の人が来て、指紋を取られましたが何も出なかったようです」

「あー、それ聞けただけでもよかった……のか?」


 前の俺は、物的証拠は残さなかったらしい。バスの客が証言すれば話は別だが。


「とてもご迷惑をおかけしました。すみません」

「ホントだよまったく……ソフトクリーム、どうだった?」

「甘くて冷たくて、とてもおいしかったです! 本当によかった! 今でもたまに夢に見ます! ありがとうございます、恩返しをしたいところですが、あいにく私にできることは何にもなくて……」

「あー、いいよ別に」


 ポストがとても喜んでいることだけが、不幸中の幸いだった。これで「イマイチ」とか言われていたら、俺は公共物破損とかそういう罪状で逮捕されていたかもしれない。


「やっぱり手紙は汚れてた?」

「はい、あなたにも見せてあげたかったです、郵便局員の驚いた顔を! あんなに驚きと虚無感がきれいに混ざった顔は見たことがありませんでした! でも私には知ったこっちゃないので」

「……ポストにとって手紙ってなに?」

「パサパサした味のない紙束、それ以上でもそれ以下でもありません」


 ふうん、と俺はそのときだけ何も思わず、ちょうど来たバスに乗り込んだ。ポストに手を振ることもなく。

 数日後、俺は町中のポストに様々な食べ物を『廃棄』した罪で現行犯逮捕された。たくさんの『おいしい』『初めて味のあるものを食べた』『ありがとう』という言葉に後押しされた俺は、ポストの声を正直に話した。案の定、精神障害者として無罪の判決を受けた。今は病院に閉じ込められている。

 二階の食堂で病院食をちまちま食っていると、ザアザアと雨のような、波のような音が聞こえてきた。職員たちが何やら慌ただしい。俺は窓の外を見た。

 一面が手紙の海だった。海流のような流れがいくつも連なって、病棟に押し寄せている。おおむね白色の海の中に、ポツンと赤い四角を見つけた。


「ソフトクリームの人ー! どこですかー! 助けにきましたー!」


 俺はいてもたってもいられず、窓から飛び降りてポストの近くにダイブした。鼻孔に紙やインクの匂いが広がる。紙束に埋もれておぼれそうになると、あのときのポストはすいすいと手紙の中をかき分けて俺のところにやってきた。俺は赤い身体にしがみつく。重さと大きさがとても頼もしく思えた。ポストの根本は腐って折れた形跡があった。おそらく、犬の小便が劣化を促したのだろう。


「どうしてここがわかったんだ?」

「あなたの話題が手紙の中にあったんですよ! さあ、どこへ行きましょうか!」

「そうだな、とりあえず……」


 メシのうまいところへ。俺がそう言うと、ポストは元気な返事をして泳ぎを進めた。手紙の海は、パサパサして味がなくて食えたもんじゃないから。

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