第74話 絶望するパンドラ その三



 ドアの向こうは室内だ。

 一瞬、木製のベッドが見えた。

 ベッドの上には人影があったような……が、それをたしかめることはできなかった。


「龍郎。君、他人の家のなかを歩きまわる趣味があるのか? おれがいいと言ったのは絵を見ることだけのはずだ」


 とつぜん、背後から黒川の声が聞こえた。ふりかえると、画家が青ざめたおもてを険しくしている。


「すみません」


 とりあえず謝ったあと、龍郎は迷った。天使の匂いがしたんだと言うべきか、てきとうにごまかすべきか。

 天使がここにいるという確証は、まだない。言っても警戒させるだけになるだろう。


「トイレに行きたくて」


 ごまかすほうを選択する。


「ふうん。そういうことは初めに断りを入れてほしいな」

「そうですね。気をつけます」

「トイレはこっちだ」


 最初の場所まで戻される。

 アトリエをはさんで反対側のドアのなかに浴室とトイレがあった。ほんとは行きたくもないのだが、行かないと怪しまれる。しょうがなく水洗式便座にすわって、ため息をついた。


 気づかれていないと思っていたのに、なぜ、黒川はあのタイミングでやってきたのだろうか。

 やはり、あの部屋に見られては困るものがあるから注意していたのか?

 どうも、黒川は何かを隠しているように思える。それが謎の天使の存在なら問題はないのだが。


「じゃあ、黒川さん。おれたちはそろそろ帰ります。日も暮れてきたので」


 トイレから出ると、龍郎は切りだした。


「そう? もっとゆっくりしていけばいいのに。なんなら、おれが手料理ふるまうよ?」

「いえ、けっこうです。青蘭が疲れてるみたいなので、今日は帰ります」

「明日も来てくれるね?」


 たずねられて、龍郎は恋人をかえりみた。青蘭はすてられた子猫みたいな目で龍郎を見つめている。


「青蘭?」

「……ボク、どっちでもいいよ。龍郎さんが言うとおりにする」


 青蘭の肖像画を欲しいと思ったのは龍郎だ。青蘭はモデルなんてしたくないのかもしれない。


「明日の青蘭の気分しだいですね。じゃあ、失礼します」

「待った。電話番号だけ教えてくれ」


 龍郎は連絡先を交換したあと、黒川と別れた。車内に入ると、ようやく二人きりだ。


「青蘭。ムリしなくていいんだよ? イヤなら、黒川にはおれから断るから」

「それは別にいいんだ……」

「でも、元気ないよね?」

「そんなこと……」


 この前も青蘭のようすがおかしかったので、つい浮気を疑ってしまった。でも、青蘭は龍郎と別れるときが迫ることを案じていた。

 青蘭は誰よりも純粋なのだ。

 きっと今回も青蘭は龍郎の思いもよらないことで心を痛めているに違いない。


「青蘭。預金のことが解決するまで、おれの給料は必要ないから。気にすることないよ?」

「……うん」


 龍郎は気づかったつもりなのだが、なんとなく、青蘭の顔色がますます青くなったような?


 黒川のアトリエ兼自宅のある湖畔から、M市内までは二十分ほど。そこから、山のふもとの龍郎たちの家までは、さらに十分だ。


 ちょうど帰宅したとき、青蘭のスマートフォンが鳴った。青蘭はスマホにとびついた。

 龍郎はまだ庭にバックで駐車中だったので、誰からなのか画面表示を見ることはできなかったが、青蘭の語調から第二秘書と話しているらしいことはわかった。最初はおとなしく「うん、うん」と相槌あいづちを打っていた青蘭の声が、だんだんヒステリックになってくる。


「そんなバカなことあるわけないでしょ? 見えすいた嘘だ。ボクは一人っ子なんだから。おじいさまだって、だからこそボクに全財産を——えっ? 書類をとりに? わかりました。じゃあ、書類を確認したら、ボクにメールして」


 電話を切った青蘭が、今まで見たことがないくらい興奮している。

 一人っ子がどうとか、気になることを話していた。

 子どもみたいに自分の爪をかむ青蘭の手を押さえて、龍郎は聞いてみた。


「秘書からだったんだろ? なんて?」


 青蘭はビクンと体をこわばらせ、そっと龍郎を見あげる。


「えっと……」

「青蘭。おれに隠しごとしないでほしいな。青蘭の悩みなら、なんでも聞くよ?」


 青蘭は逡巡している。

 そんなに言いにくいことだろうか。

 しかし、先日のようなことになると悲しいので、ここは早めに問いただしておくにかぎる。


「青蘭。一人っ子がなんとか言ってたよね?」


 青蘭はあきらめたようだ。

 せまい車内だから、電話の内容はイヤでも龍郎にも聞こえていると理解したのだ。


「……ボクに、兄がいるって」

「兄?」

「うん。第一秘書のガストンが、そう主張してるんだって。だから、おじいさまの遺産はその人とボクに折半されるべきで、財産を半分、譲るよう求めて裁判を起こすつもりらしい。書類を第二秘書の日本の事務所に送ったって言うんだ。佐竹は今、アメリカに住んでるから、帰国して書面を確認するって」


 龍郎は絶句した。

 絶対にありえない話だからだ。

 なぜなら、青蘭はアンドロマリウスの実験で造られた命だからだ。ふつうの人間のように生まれてきたわけではない。


「星流さんか、青蘭のお母さんの……えーと、カレンさんだったっけ? どちらかの子どもかな? 隠し子がいたとか」

「お母さまにはボク以外の子どもなんていないと思う。結婚したとき、まだティーンエイジャーだった。前に戸籍を見たけど、結婚は一度しかしてないし」

「じゃあ、星流さんかな?」

「お父さまはお母さまと結婚する前、神父とつきあってたんでしょ? 男同士で子どもは生まれない」

「フレデリックさんに聞いてみよう」

「フォラスも何か知ってるかも? 研究室にいたのなら」

「たしかに」


 まったく妙なことになったものだ。

 以前、アンドロマリウスと話したとき、実験でできた天使の卵は、青蘭以外、孵化ふかしないか失敗作だったと言っていたのだが。

 そもそも青蘭の出生については、まだ謎の部分がある。そのへんを解明しないと、事実は闇のなかだ。

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